QUERY: 言葉

黒し雲 鐘はヨハネか 黙示録 (土屋耕一) 鳥も啼かず、静かな森と。 :きれいすぎてつまらない。 稲荷黄昏画素足りない。 :言葉の勢いが大事なときもある。 グラグラ揺らぐラグ :落ち着いて正月特番も見れやしない。
もし子どもがいて と答えられるようでありたい。 いずれも森博嗣氏の(一つ目は小説中の)言葉である。
NoN 日本語では「零帳」としておこう。 思いついた言葉遊びを書き留めるためのページ。 このブログ自体言葉遊びがほとんどなのだけれど。
NoN このブログ自体言葉遊びがほとんどなのだけれど。
One-Hand Typing 片手でタイピングできる言葉を 片手間に考える。
From the New World To ... 言葉の選び方がとてもきれい。
From the New World To ... 「全人学級」、なんて恐ろしい言葉だろう。 大正自由教育運動の中で小原國芳が掲げた「全き人間」を
N in wordnik in drownin' から始めるとき、「さりすぐ」を「去り、すぐ」と解釈すると 「てし」で終わる言葉と「め」で始まる言葉を探すことになる。
P+ k.k. 言葉に頼らずに表現することの難しさの中で、 さすが小林賢太郎と言える劇となっていた。
長崎旅行2014② 歴史民俗資料館には寄らず、近くにある沈黙の碑に立ち寄る。 碑に刻まれた言葉には、ぞっとする迫力を感じる。 どうやったらこんな言葉が紡げるのだろう。
長崎旅行2014② どうやったらこんな言葉が紡げるのだろう。 「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」
読書録2 あるいは手を引っ込めた後に「今のは熱かった」という 言葉を思い浮かべる主体なら認識されるかもしれない。 何かの感覚を受け取った際に、それを言語化しないままに
勝沼 ヨーロッパ式の栽培方法だとぶどう「畑」という感じがするが、 日本式の栽培方法の場合はぶどう棚という言葉が似合うなと思う。
攻殻、あるいはharmony だが、ある人が書き、話した言葉をすべてDeep Learningのように 学習させたものにTwitterをやらせたとしたらどうなるだろう。
川辺 -- 猛暑日という言葉も、できて久しい。 連日の35度を超えるうだるような暑さの都会では、
you know...言葉ってすげーな。  道路はroadだし、有能はyou knowなんだろ。」
夜暗緞 -- 暗緞という言葉は実際には存在しない。 暗幕と緞帳の合成語。
音楽と言葉 ラテン語が変容した歌詞の箇所とがある。 日本語はカクレキリシタンたちの発した言葉、 ラテン語は天からの声(作曲者は「遠い過去から
音楽と言葉 ラテン語が変容した日本語については、「オラショ紀行」 によればカクレキリシタン本人が唐言葉だと認識していた ほどで、元の意味は消失し、もはや意味不明の呪文として
音楽と言葉 ■拍節 「オラショ紀行」に、「言葉がわからないから拍節が あいまいになる」という内容のことが書かれている。
音楽と言葉 ここは4/4拍子ではなく、2/4と3/4の混ぜあわせになっており、 この言葉がラテン語の"Kyrie eleison, Christe eleison."とは 全く別物であることを表している。
音楽と言葉 お祭りの囃子のようなリズムで作曲されており、 意味よりも言葉のリズムの良さを優先した表現になっている。 日本語の次に、元のラテン語の歌詞が出てくるが、この部分は
音楽と言葉 伝える部分になっている。全体として女声と男声が交互に歌う構成だが、 「でうす」や「くろす」などの言葉は全パートで歌っているというところに、 カクレキリシタンにとってこれらの名詞が大事な言葉で、
音楽と言葉 カクレキリシタンにとってこれらの名詞が大事な言葉で、 これくらいは意味がわかっていたのではないかということを思わせる。
音楽と言葉 この曲は遠藤周作による小説「沈黙」の世界である。 出だしのオロロンという言葉は、この地方のお子守歌に共通する あやし言葉であると同時に、波を表現する。
音楽と言葉 あやし言葉であると同時に、波を表現する。 それは「沈黙」の中で、
音楽と言葉 演奏会後、合唱団の後輩と話した際に、音楽と言葉は どちらが先なのかということを考えた。
音楽と言葉 どちらが先なのかということを考えた。 どこから先を音楽や言葉と呼ぶのかにもよるが、 叫びのようなものを言葉と定義しなければ、
音楽と言葉 叫びのようなものを言葉と定義しなければ、 音楽の方が先行しているのが自然ではないかと思う。
音楽と言葉 意味を保存する手段としての言葉が発生するには 意識の誕生を待つ必要がある。
音楽と言葉 意識の誕生を待つ必要がある。 あるいはむしろ、言葉というプロトコルの誕生により 意識が存在できているのかもしれない。
写真撮影 「はい、チーズ」という言葉。 英語だとcheeseのiの長母音でのばすので、
構造 建築を含む工学の分野では、構造という言葉
構造 建築構造という言葉の表面的な意味としては、 鉄骨のラーメンフレーム、鉄筋コンクリートの壁床、木の軸組等が
構造 しかし、構造という言葉の意味が上述のようなものであるとすれば、 建築においてある空間を成立させようとしたときに、
構造 空間を成立させるための仕組みに対する、これまでの知見との共通事項を 探る行為にこそ、構造設計という言葉の本意があるのではないかと思う。
過去未来 立地はどこがよいのか、誰が設計するのがよいのか。 価値観の多様化という使い古された言葉に、ザハの案は 引きずり降ろされたのかもしれない。
表現 テキストというものは言葉によって切り刻むことができる。 合唱では、歌詩あるいは旋律などを解釈し、別の言葉で
表現 合唱では、歌詩あるいは旋律などを解釈し、別の言葉で 置き換えていくことに相当する。
辞書 辞書とは言葉から言葉への置換の集合であるが、 検索語を抽象するような置換になっている必要がある。
負数の二乗歴史的経緯により for historical reasons」である。 便利な言葉だ。
EX_MACHINA 思ったことはいろいろあった気がするが、あまり言葉になっていないので 時間ができたら見直そう。
プロトコルと実装 幾何学や代数学等、いろいろな処理が行えるようになっている。 これは、言葉を見ることや聞くことができないのとは大きく違う。 (文字を見たり、声を聞くという意味ではなく、言葉自体を光のように
プロトコルと実装 (文字を見たり、声を聞くという意味ではなく、言葉自体を光のように 見ることができないという意味である)
ゼロレーティング 記事中では通信の中立性という言葉が出てくるが、 連邦通信委員会(FCC)がそれに対して規制をかけているというのが
サイバネティックス この言葉に引き続き、機械が人間の仕事を代行することが 「ひじょうな福祉」なのか「私にはわからない」ことであり、
サイバネティックス 時間に属するものとしている。 第1章最後の言葉が印象的だ。
サイバネティックス 記憶の実装の仕方を回路として記述している部分で、 「見掛け上の現在」という言葉が出てくる。(p.235) どのようにして「現在」という感覚が実現されているのかは
総長挨拶 いつだかの総長式辞で、その式辞自体の信ぴょう性も自分自身で確かめるように、 という言葉で締めくくられたものがあったと思ったが、どれだっただろうか。 →教養学部長の石井先生の式辞だった。(全文
即時 即時的コミュニケーションの極限の先に音楽が待っているのだとすれば、 やはり言葉よりも音楽の方が先に生まれており、即時性を重視する現代は 先祖返りをし始めているのかもしれない。
有限性の後で そこであるモデル化を採用する。端的に言えば理由付けだ。 数学もまた、ウィーナーの言葉を借りれば、ブラックボックスの隣に置かれた ホワイトボックスに過ぎない。
科学と仮説 という言葉に続き、
充足的視覚空間 ポアンカレの「科学と仮説」の第四章「空間と幾何学」において、 「充足的視覚空間」という言葉が出てくる。 視覚が二つの次元の概念を生じさせ、筋肉感覚が第三次元を
社会心理学講義 少ない言葉で要約するのがとても難しい本だが、 共感できる内容がいくつも出てくる。
社会心理学講義 序においてポアンカレの「科学と仮説」が引用されているが、引用箇所が ちょうど「事実の集積が〜」のところであった。結構有名な言葉らしい。
責任という虚構 ただ、「結論に代えて」という章で、「責任という虚構」を上梓した 意図を、ストレートな言葉で表現しているあたりは読んでみて よかったなと思える。
責任という虚構 小坂井氏の言葉にあるように、普遍的な真理や正しさが存在するという 信念こそが危険なのである。
数学の現在 が挙げられている。 人間が理由付け、あるいは野矢先生の言葉を借りれば秩序付けを 行うようになったのも、大数の法則や中心極限定理から説明できたり
教育 維持するために不可欠な仕組みとなっている。 それは、野矢先生の言葉を借りれば、物語を共有する必要があるからだ。 物語の共通部分が増えるほど、他者の不完全性はより高まり、
音楽と言葉3 言葉にももちろんそういった側面があるが、音楽に比べると 固定度が高い。クラスタリングの仕方がはっきりしている。
音楽と言葉3 画像処理で言えばポスタリゼーションをかけた状態に近い。 同じ言葉でも意味にはぶれがあるし、時代や場所毎に変化するものだから 完全に固定化したものではないが、音楽に比べるとこういった記号化の
音楽と言葉3 何にせよ、記号化の度合いを強められたことに、言葉を生み出すきっかけが あったように思われる。
音楽と言葉3 こういった記号化度合いの面から考えると、やはり音楽が言葉に 先行するのが自然だと考えられる。
音楽と言葉3 さて、知覚の共有という点では、聴覚情報に意味付けや理由付けをしていくという ことにしか触れなかったが、視覚や触覚もまた音楽や言葉の要素たり得る。 味覚や嗅覚も多分そうだろう。
ベーシックインカム3 しかし、生活がどうあるべきか、労働がどうあるべきか、といった ことに関して、各々が自分の言葉で構成した自分なりの理想を もつことはそれほど難しいようには思われない。
ショートサーキット 発症に関わる可能性、記憶力の低下につながる生活習慣の要因、 等の言葉が並ぶが、端的に言って、習慣という思考の短絡自体を 認知症とカテゴライズしているだけなのではないか。
風は青海を渡るのか?  あの「目にすれば失い、口にすれば果てる」という  言葉が出てくる。 ・本作中、何度か月の描写が出てくる。というか章題に「月下」
美と合理性 構造デザインの大家、坪井善勝先生の言葉に、
パートナー のも納得がいく。 阿吽の呼吸で言葉少なにコミュニケーションを取り合う老夫婦は、 そのような間柄にあるのだと想像する。
シン・ゴジラ 途中、何度も泣いてしまうのだが、理由が言葉にならない。 悲しみ、怒り、焦り、無力感、悔しさ、やり切れなさ、畏敬の念。
高齢化 ちょっと飛躍しすぎではあるが、天皇陛下のお言葉を聞いて そんなことを考えた。
高齢化 天皇陛下のお言葉で、社会の高齢化とご自身の高齢化を 関連付けられていたのが印象的だった。
もうすぐ絶滅するという紙の書物について こうして言葉を残していくのだろう。
もうすぐ絶滅するという紙の書物について という巨匠の言葉を胸に、これからもまた紙の書物を買い、 こうして言葉を残していくのだろう。
文体の科学 言葉自体、無意識や意識という抽象過程の抽象から生じる類のものである。 繰り返し使用される中で、常に圧縮・短縮されるというのは、使用頻度の高い
理不尽な進化 「現在的有用性」と「歴史的起源」、「説明」と「理解」、 「方法」と「真理」等の言葉で対比される。 「説明と理解」の長い論争の解説をする中で、その違いが列挙されるが、
抽象の抽象 意味付けについての抽象が言葉を生み、 理由付けについての抽象が物語を生む、
量子論の基礎 波束の収縮という、言葉だけでふわっと理解していたものが、 理想測定を行ったときにおきる、測定した物理量に対応する
仕事をしたいか 仕事という言葉で代表される、やるべき理由付けがされた一連の動作というのは、 人間の意識にとって、文字通り精神安定剤となっている。
境界条件 しかし、締切のような時間的境界条件は初期条件という 言葉にマッチしないのでここではまとめて境界条件と呼ぶ。
意思決定 通じている人間はもはや存在しなくなった。 学問の細分化によってすぐ近くの分野の言葉もわからなくなり、 異なる分野で同じような悩みを抱えているという状況はあり、
意思決定 領域では望ましい。 話す言葉が少しずつ違う者同士での通信は確かに多少の困難を 伴うが、それでも目指すべき方向が定まっていればそれは
科学と文化をつなぐ 最近悩んでいたところだ。 このブログでは情報という言葉を情報科学における意味で使うことが多いが、 それとは別に「最新情報」等と言うときの、既に圧縮された情報を単に情報という
DWIM DWIM(Do what I mean)という便利な言葉に出会う。
いきものとなまものの哲学 高校のとき、国語教師から脱構築という言葉を習った。 そのときは二項対立の解消というくらいの説明しかなく、それ以来ちゃんと
動きすぎてはいけない 縮約、習慣化、観想という言葉は、抽象という言葉と概ね同じであり、ドゥルーズの 「すべては観想する」という言葉にはとても共感する。
動きすぎてはいけない 「すべては観想する」という言葉にはとても共感する。 抽象には大きく分けて意味付けと理由付けの2つがあると考えている。
(un)?known (un)?knowns というラムズフェルドの言葉がある。
Goodbye World, Goodbye I feast every day on His Word ありがたい言葉をたくさんもらうんだ Heaven is near and I can’t stay here
笑い ベルクソン自身も言うように、可笑しさによって引き起こ される笑いを少数の言葉で定義するのは非常に難しい。 しかし、敢えて本書を読んで心得た「可笑しさによる笑い」
現実 むしろ、コンセンサスが得られていることを確認することが、 現実という言葉を持ち出す唯一最大の目的とも言え、当該 コンセンサスに無関係な事柄はその現実にはいないとみなしても
現実 久々にひどく言葉足らずな内容になってしまった。 取り敢えずの覚書として残しておこう。
Post-truth 和田隆介さんによるWADAA2016の総括に、 Post-truthという言葉が出ていた。
屍者の帝国 言葉を主題にした「虐殺器官」、意識を主題にした「ハーモニー」、 その両方を引き受けた上で、「ありがとう」の五文字を展開する
2016年 かつては回文やアナグラムといった言葉遊びばかりだったのが、 回文が4記事、アナグラムが10記事で全体の3%とは情けない。
現実・同時・同地 現実という言葉によってコンセンサスが得られていることを 確認するとき、それが同一の情報を抽象した結果得られた
ゆとり教育 1996年に中教審から出された答申のようだ。 この内容自体はとても優れているし、「正しい」という言葉を 避けるならば、「極めて妥当だ」と評価できる。
教育の抽象化 維持しておけるので、言葉やその内容、あるいは 通信媒体が劣化するまで、比較的長い期間、
教育の抽象化 体験学習のようなかたちで、視覚、触覚、聴覚などの 言葉以外の情報も同時に与える教育というのは重要 だと思うが、いかんせん時間的、金銭的なコストがかかる。
教育の抽象化 かなり依存した考え方をもっている。 言葉だけでは伝達困難な内容があることは承知しつつ、 抽象化した方が高速で安価で安易であるから、
教育の抽象化 一人の人間が短期間に仕入れる(圧縮された)情報の 量があまりに多い場合には、それを言葉という プロトコルで送信することで、通信量を可能な限り
教育の抽象化 教育が言葉のみによって行えるとは到底思えないが、 教育の抽象化が進むに連れて、そのような側面が
教育の抽象化 減らす必要がある。 言葉の形式で圧縮しておけば、再現性も高レベルに 維持しておけるので、言葉やその内容、あるいは
シンボライズとデジタイズ という、ものすごく言葉足らずな投稿をしていたが、 抽象度の差がアナログとデジタルの違いを生むのだと
沈黙 通して「沈黙」に対する理解を深めた。 An At a NOA 2015-10-12 “音楽と言葉
方法・手法・道具 科学者の時代には、職人の方法が理由付けされることで、手法という 言葉として抽象される。 手法それ自体は作業を進めるものではないが、抽象された構造を
言葉使い師 神林長平「言葉使い師」を読んだ。
言葉使い師 言葉は、意識間の通信に使用されるプロトコルの 一つであり、その中でも圧縮率の高いものである。
言葉使い師 言葉使い師も同じことである。 言葉を使うことが禁止され、テレパシーで心象がそのまま伝わる
言葉使い師 言葉を使うことが禁止され、テレパシーで心象がそのまま伝わる 世界というのは、補完の自由度を削ぎ落とした状態であり、
探し物 「買う理由が値段なら買うな、買わない理由が値段なら買え」 という言葉に通ずるものがある。
人はなぜ物語を求めるのか よって得られる知見はそれほど多くない。 だが、「寒いね」という言葉に対して「寒いね」と 答える会話と同じように、通信可能な状態にあることや、
暴力と社会秩序 その方面に展開するのも面白そうだ。 本書で「信念」という言葉で表現されるものには、当然 人文科学だけでなく、自然科学の知見も入ってくるはずだ。
ディザインズ 使い方によって、明確なものになってしまうことがある。 言葉によって抽象できない、というよりは、言葉で抽象する ことで、意図しない秩序に固定されてしまう、というのが、
プロスポーツ そもそも、人や物にお金がかかるとはどういうことか。 産官学連携という言葉をかざして、資本主義と科学の 相互駆動を止めないために続けられる努力とは逆行
音楽と言葉4 言語を定義できるだろうか。 音声による言葉、ボディランゲージ、図形言語等、 いずれのコミュニケーションにも理由付けが先行
体で覚える 現状では、言葉である程度の作業内容を伝えた上で、 後は人間が物理的身体を駆使してトライアンドエラーで
マルセル・ブロイヤー展 ちょうど読んでいるティム・インゴルド「ラインズ」の 言葉を借りれば、近代において、外部から軌跡が排除され 糸だけが残ると同時に、軌跡は内部へと回収された。
ラインズ 意味付けと理由付け、音楽と言葉、芸術と技術、 観光と旅、近代とは。
ラインズ 発話speechと歌songの区別に伴い、言葉と音楽の違いが問題に なったことも、この線描と記述、あるいは芸術と技術の分離に
音楽と言葉5 声を媒体とする音楽と言葉について考えたとき、 これらをコミュニケーションに用いるためには、
音楽と言葉5 ただ、その原初的な声は、どちらかと言えば音楽的な プロパティを先に獲得し、言葉的なプロパティを 後で獲得したと推測するくらいのことは、しても
音楽と言葉5 最初期の声によるコミュニケーションは、音楽とも 言葉ともつかず、両者の共通祖先となるようなもの だったとみなすのが妥当だろう。
音楽と言葉5 声帯、口まわりの筋肉の発達が欠かせなかったはずだ。 古今東西のあらゆる発声行為が、音楽であるか言葉 であるかによらず、ほとんど立位あるいは座位で
音楽と言葉5 この二つの符号化方式を比べたとき、前者を音楽、 後者を言葉と呼ぶのはあながち大外れでもない。
音楽と言葉5 現代では、音楽にも音色が要素として含まれるし、 その逆もまた然りであるから、言葉よりも音楽が 先に生まれたと言うのははばかられるように思う。
人間はなぜ歌うのか? なったのだろうか。 An At a NOA 2017-05-12 “音楽と言葉” 質問する能力は充足理由律への信仰と概ね同一視できるだろうか。
意味の変遷 言葉の意味は時代を反映する。
現代数学入門 数学に「構造」という言葉が持ち込まれたのはブルバキの 「数学の建築術」によるらしい。
義務教育 プロトコルは通信するノードの集団ごとに共有されて いれば十分であり、家族内でしか通じない言葉や、 民族内でしかわからない音楽は発生し得る。
恣意性の神話 記号になる。 「はっきりとした」というのは、著者の言葉を借りれば「〈綴り〉 を獲得した」と言い換えられるかもしれない。
管理社会と田舎 みたいな話のときに想像されているのは、 ドゥルーズの言葉を借りれば、管理型ではなく 規律型であり、近代のイメージを引きずっている
青白く輝く月を見たか? 投機的短絡はつなぎ替え可能であるところに利点が あるのに、一時的な短絡を言葉として固定してしまう ことで、矛盾をもたらす病原菌に見えてしまう。
青白く輝く月を見たか? 難しいところだろう。 言葉を経由しないラーニングを、ハギリは恋と呼んだが、 それは「而今の山水」という悟りの境地に似ているように
而今の山水 山が山として物理的身体によって分節されていながら、同時に 発散する心理的身体によってつなぎ替え可能なことが言葉に よって拘束されていない、すなわち山であることに繋縛されて
而今の山水 本来はつなぎ替え可能である投機的短絡としての 理由付けは、言葉に置き換わることでつなぎ替え 可能性を失い、固定化される。
而今の山水 理由付けという抽象過程としての心理的身体の一部が、 このように言葉として固定化することで、仮想のハード ウェアが出来上がり、それは物理的実体のハードウェア
而今の山水 山が、山というものとして、山という言葉によって抽象 されることが、ハードウェア化した部分を有するという
而今の山水 理由付け可能な対象としてあるという状態である。 理由を言葉にしてしまった瞬間、「而今の山水」は「山水」と なり、恋は冷めてしまう。
而今の山水 「而今の山水」の話を思うと、この文章、あるいはこのブログを 言葉のかたちで留めることにも、自ずと限界があることがわかる。 先人たちは、詩や俳句、回文や掛詞のようなかたちで、言葉の
而今の山水 先人たちは、詩や俳句、回文や掛詞のようなかたちで、言葉の 音韻や文字数、配列をあえて明示的にハードウェアとすることで、
而今の山水 音韻や文字数、配列をあえて明示的にハードウェアとすることで、 それ以外の言葉の要素に解釈の余地を与え、言葉の固定化から 免れようとしてきたようにも見える。
而今の山水 免れようとしてきたようにも見える。 散文の場合には、同じようなことを言葉を替えて何度も表現する ことが、固定化の回避だったと言える。
ゲンロン5 必要であり、それをもたらすのが他者の視線である。 鈴木忠志の言葉を踏まえ、幽霊的なものを失うことで芸術は芸能に 堕ちてしまうと東は述べており、これはまさに「ゲンロン0」の
ゲンロン5 という鈴木忠志の言葉が引用されている。 信仰とは、心理的身体に固定化した部分をもつことで行われる
ゲンロン5 「幽霊的」という言葉は、何かしらのズレに関連している。 ズレと言うからには複数のものがあって、そこには差がある
神話と数学 Math is a sort of myth. この言葉が、数学なんて生きていく上でなんの役にも 立たないという意味で取られてしまうのであれば、
イメージの自然史 本を読みながら、時に合っているのだかわからない喩えで 言葉を綴る。 その感じが、「タラッサ的退行」によって海の中へと
生命に部分はない 特定の言葉として表現すること自体が一つの固定化をはらみ、 次の発散を促すしかなくなる。
生命に部分はない その固定化と発散の間でバランスを取り続けることが、「わかろう」 とし続けることだ、…というように、いくら言葉を尽くしても、 特定の言葉として表現すること自体が一つの固定化をはらみ、
昨日の善は今日の悪 つなぎ替え可能性はつなぎ替えることによってしか成立 せず、言葉によって十全に表現できないのはもどかしいが 仕方のないことである。
何を構造主義として認めるか にある空間において、特定の構造=言葉を見出すことで意味が 産出される過程は、抽象と呼べるものだろう。
何を構造主義として認めるか 関係的な空間である。 言葉による結合で溢れ、意味の過剰生産としての無意味な状況 にある空間において、特定の構造=言葉を見出すことで意味が
何を構造主義として認めるか 産出される過程は、抽象と呼べるものだろう。 別の構造=言葉を見出すことによって別の意味を生み出すという 構造変動は、つなぎ替え可能な抽象=理由付けである。
何を構造主義として認めるか 通信プロトコルとしての言葉に着目することが構造主義者の 特徴となるわけだが、ここでは七つの規準が与えられる。
何を構造主義として認めるか と言うときの「言葉」は、言語languageよりも広い概念 としての通信規約protocolに近いと思われる。
旅先の感覚 こういった旅先の感覚を、写真や言葉を使って部分化 して圧縮することでしか外部に保存できないのは
プロトコル 言葉は通じるのに話の通じない相手があふれる世界では、 如何にして話をしたらよいだろうか。
改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』 ただし、著者が描き出すように、「ゴドーを待ちながら」 という作品が、頭で理解することを拒否し、言葉だけでは 語れない領域のものであるからには、この作品について
改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』 語れない領域のものであるからには、この作品について 言葉だけで語ることにそもそも無理があるのだと思う。
改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』 「わからない」、「理解不能な無の存在」である「ゴドー」を 言葉で言い表そうとしても、
紙の辞書 科学が世界についての一つのモデル化でしかないように、 辞書もまた言葉についての一つのモデル化でしかない。
ピアノを弾く哲学者 共同体の共通項として、様子、振る舞い、歩調などの広い語義を もつ「アリュール」allureという言葉を提案する。 「ピアニストのアリュール」を語るだけでは共同体は固定化して
日本の人類学 新しい環境にどんどん進出していく」ようになる。 また、言葉という判断基準を共有していない子どもとの コミュニケーションが大人にも広がることで音楽となる。
日本の人類学 言葉や音楽に限らず、何らかのコミュニケーションを通じて 共有された判断基準が文化となる。
自閉症とネットワークループ 自閉症Autismはselfを意味するαὐτόςが語源になっており、 100年ほど前に作られた言葉だ。
脳の意識 機械の意識 だけでなく、人間の個体同士の通信網における抽象もなければ、 我も彼も意識は意識として意識されないと思われ、言葉や道具を 用いた個体間の通信は、外部化した生成モデルとみなせるのでは
ホドロフスキーのDUNE という言葉に続く間が印象的だった。
ホドロフスキーのDUNE 「デューン」そのものを観ることはできないが、関わった 人間が語る言葉や、絵コンテを見た人間が発表する作品の中に、 まさしく「デューン」の面影と言えるものが残っている。
ラ・ジュテ という言葉によってとどめられた女こそが、個々の意識に特有な ものとなって、媒介変数へと還元されない不可逆性を生んでおり、
DEVILMAN crybaby 一緒に悶えるしかない。 それぞれが、言葉で分析すると消え去る何かを、 とても静かに静かに哭いている。
プログラミング言語と言文一致 自然言語における話し言葉と書き言葉の違いは、 プログラミング言語におけるインタプリタ型と
プログラミング言語と言文一致 自然言語について言えば、明治時代の言文一致運動で、 文体としては書き言葉にも口語体が普及したが、 話したことを読めるようにするには何かしらの編集が
プログラミング言語と言文一致 話したことを読めるようにするには何かしらの編集が 必要であり、文の構造としては、やはり書き言葉には、 話し言葉とは違った書き言葉としての構造がないと、
プログラミング言語と言文一致 話し言葉とは違った書き言葉としての構造がないと、 読みづらいように思う。
ニクソン・ショック どちらが先に通用するだろうか。 言葉の「固さ」に頼れる分、意識の方が先だろうという 見方もできるかもしれない。
酒盛 酒を飲んでは言葉を交わし
歌を歌っては声を枯らし
今更ながら、 声と言葉とは 違うものだなと。
声は、音楽と言葉の あいだにあるというか。
「百学連環」を読む リテラシーの重要性を言ったもののようにも思える。 言葉をつくるというのは、最も抽象的な行為であり、 西欧学術の多くの概念を日本語に抽象した西周の
3D-Printed Steel Bridge 非線形を線形の張り合わせに置換することこそ「理解」という 言葉の意味するところであった「近代」という時代への決別を 表明するかのようである。
情報共有 近代的な一真教の教徒にとって、効率や 洗練といった言葉が示す方向は一意的に 決まるため、抽象的な情報共有は近代と
声の具体性 音楽と言葉を抽象的な記号体系と捉えると、 同じ情報を符号化するときの媒体や方式の
その世 人形の超然さには、その世という 言葉がしっくりくるように思う。
海辺 海は未だ理由付けられていない自然の宝庫であり、 言葉の本来の意味での「未来」のイメージだ。
濾過 だけが抽出される。 その抽象過程を経たものを形容する言葉が、 「きれい」である。
rhythmとrhyme だろうか。 音楽と言葉が峻別できないとき、両者はどのように 区別できるのだろうか。
人はなぜ「音楽」をするのか? 発音における、言語と喃語。 発声における、音楽と言葉。 聴覚における、音楽と物音。
やばい コミュニケーション不全を回避するには、文脈が 共有できていないことを想定し、別の言葉に置換 することも必要になる。
犯罪と自然災害 帰せられる責任」という概念の虚構性は、 テロリズムという言葉が人口に膾炙するに つれて顕になってきているだろうか。
デバッグ プログラミングと同じように、発言にもデバッグが必要だ。「バグは出ない事しかわからない」、「バグのないソフトウェアは無い」以上、リスクのない発言もまた存在しないのだろうが、意図しない炎上を防ぐには、慎重に言葉を選ぶしかない。
中国絵画史 山水画と雅俗の区別。
雅俗の区別というのは、つまりエリートを決めるということだ(eliteの語源は「選ばれた者」である)。科挙によって、氏ではなく育ちによって出世できるようになった結果、育ちの優劣を峻別するために生じた雅俗の区別が山水画の発展につながるという説明は非常に明解である。山水画は書と共通点が多いが、西洋におけるラテン語の使用と同じように、権威は書き言葉を支配することによって保たれる。西洋ではその後、ダンテ、ルター、デカルトらによって次第に俗語が書かれるようになりつつ、三十年戦争を経て、権威は教会から国家へと移っていった。書き言葉の解放と権威の失墜という観点からすると、白話小説の普及や白話運動といった言文一致の流れも、山水画の衰退と関連しているのではないかと思う。
中国絵画史 花鳥画と同音による吉祥シンボル。
発音が同じであることによって吉祥を象徴するという、耳を介した抽象化は、表語文字ならではである。山水画が書き言葉とつながっているのに対し、花鳥画は話し言葉とつながっている。これはつまり、エクリチュールとパロールの対比である。20世紀の西洋哲学で展開された言語の問題は、山水画と花鳥画の関係にも適用することができるだろうか。書き言葉があからさまに権威を支えるのに対し、話し言葉は知らぬ間に特定の価値観を埋め込む。識字率の推移と画の様式の変化を対応付けてみるのも面白いように思う。
日本語の文法を考える こういう変遷があり得ることを踏まえると、ラ変やナ変が五段活用に合流し、二段活用が一段活用に合流したのと同じように、「ら」抜き言葉のような「正しくない」表現も、いつか「正しい」表現になるのだろうなと思う。「本来の」表現はあっても、「正しい」表現はどんどん変遷していく。でも、「正しい」を維持しようとする姿勢は、生命としての日本語のホメオスタシスを見ているようで微笑ましい。
芸術人類学講義 ありのままの環境は、生身の人類にとって益にも害にもなり得るような、種々雑多な情報の流れである。恩恵をもたらす一方で、時に苛烈でもある情報の流れから、少しでも多くの益を貰い受け、少しでも多くの害を避けようと試み続けた結果、人類は数多の生命の中で最も環境を制御できるようになった。己のために環境を巧みに破壊・創造することが、あらゆる人間活動の根底にあるように思う。その最たるものが言語であり、周囲に溢れる大容量の情報を次々とコンパクトな視聴覚情報に圧縮することで、見かけの処理能力は飛躍的に増大する。しかし、圧縮率を高めれば効率はよくなるものの、その過程で失われる情報も多くなる。津波という情報そのものに遭遇してしまえば、飲み込まれて生命を落とすかもしれないが、津波を伝える言葉は圧縮され過ぎていて、その凄惨さを表現し切れないこともままある。
縦書きと横書き 文字の読み書きは人間と媒体が相対的に移動することで行われる。言語は直列にエンコードされる情報であることがほとんどであるため、デコードがうまくいくためには相対移動の方向が一意的に定まる必要がある。書き言葉におけるこの一意的な相対移動の方向が「書字方向」である。一意的に定まれば曲線でもよいのだが、最も自然なのは直線である。ただし、人間の視野は線状ではなく同心円状であるから、直線が伸び過ぎて読みづらくならないよう、程よい長さで直線は途切れ、書字方向と直交する方向への相対移動が生じる。この相対移動の方向を「スクロール方向」と呼ぶことにする。スクロール方向の移動が生じる際、書字方向には本来と逆向きの相対移動が生じるのに対し、スクロール方向の移動は一方向のみで戻ることがないという点も両者の違いである。文字の読み書きは、書字方向に起こる連続的な相対移動とスクロール方向に起こる間欠的な相対移動によって行われているため、媒体のサイズや重さに応じて相対移動しやすい方向があることで、書字方向とスクロール方向が決まっていったのではないかというのが上記の仮説だ。