脳の意識 機械の意識
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渡辺正峰「脳の意識 機械の意識」を読んだ。
「意識とは何か」についての議論は、人類史上最も関心を集め、
これからも集め続けると思うが、その答えが人間の物理的身体の
内側、特に脳に求められるようになったのは、近代から続いている
時代の特徴だと言えるだろう。
近代的な考え方は、部分に分解したものを理由付けによって全体へと
再結合する「理解」というプロセスを重視し、理由付けの仕方には
唯一真なるもの(=真理)が存在することを仮定するという点で、
一真教的である。
集団は個人へと分解され、個人の肉体は器官へと分解され、器官は
細胞へと分解され、細胞は原子や電子へと分解される。
その一方で、要素還元主義というゲシュタルト崩壊を免れるために
理由付けが施される。
ニューロン活動と体験の連動の計測、NCCの探求による因果性の証明、
情報の二相理論、統合情報理論、生成モデルといった理論の提示、
というのも「理解」のプロセスであり、それが進行している様子の
描写は、読んでいてとても面白い。
情報自体ではなく、情報を抽象する過程である神経アルゴリズムに
意識をみるという生成モデルの話は、個人的にも賛成できるものだ。
意識が抽象過程であるならば、それが実装されるハードウェアは、
脳であろうが機械であろうが、何でもよいことになる。
可視光、可聴域、形状認識、応答速度といったハードウェア特性の
影響は存在するが、それはいくらでも人間の脳に近づけられるはずだ。
人間と全く同じ特性を有するセンサの塊は、たとえその ハードウェアが炭素ベースでなかったとしても、あるいは ハードウェア自体が存在しなかったとしても、人間である ことは可能だろうか。
それは結局、人間というカテゴリについてどのような物語、 理由付けが共有されるかの問題だと思われる。
An At a NOA 2017-10-19 “ペガサスの解は虚栄か?”
しかし、意識が抽象過程であるからこそ、「我」や「意識」といった
何かが存在するという表現には違和感を覚える。
むしろ、意識はニューロンなどの物理的なものに支えられながら、
その都度成立するものであり、「半透明の正方形」と同じなのでは
ないかと思う。
さらには、ニューロンの上に実装された神経回路網における抽象
だけでなく、人間の個体同士の通信網における抽象もなければ、
我も彼も意識は意識として意識されないと思われ、言葉や道具を
用いた個体間の通信は、外部化した生成モデルとみなせるのでは
ないかということを考えてしまう。
あらゆる抽象過程には「何を同じとみなすか」の判断基準があり、
理由付けにおいては理由がそれにあたる。
チューリングテストのような意識を判別するための理由や、生成
モデルのような意識の理論を共有しようとするところが、まさに
意識らしさが外部に現れたものであり、「意識とは理由付けである」
という理由付けすらできるのではないかと思う。
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、 意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続”
そして、意識の問題が個体の内外に渡るからこそ、意識を移植したり
人工意識を実装したりする上での一番の困難は、肉体や筐体の内側
ではなく、外側にあるように思う。
大航海時代における邂逅からマーチン・ルーサー・キング・ジュニアを
経てバラク・オバマの大統領就任に至るまで、徐々に人種差別が緩和
されてきているのと同じように、意識のカテゴリの緩和もまた、
数世紀をかけて行われるのではないかと思う。
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、 いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに なると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “勘”
奴隷や黒人が人間として抽象されないことが主流な時代があり、 今でも、多かれ少なかれ、自分とは異なるようにみえる存在を 自らと同じカテゴリに入れようとしない傾向はある。
その傾向は消えることなく、同一性の基準の更新はせめぎ合い ながら緩やかに進行していくと考えられる。
An At a NOA 2017-09-22 “何かであるということ”