何を構造主義として認めるか
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ジル・ドゥルーズ「何を構造主義として認めるか」を読んだ。
構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
An At a NOA 2015-11-02 “構造”
事象間に共通部分が見出されることで通信が可能になり、
その際、共通部分である構造は通信プロトコルとなる。
たとえ秘教的な言葉であれ、非音声的な言葉であれ、 言葉であるものにしか構造はない。
ジル・ドゥルーズ「何を構造主義として認めるか」
「ドゥルーズ・コレクションⅠ」p.55
と言うときの「言葉」は、言語languageよりも広い概念
としての通信規約protocolに近いと思われる。
通信プロトコルとしての言葉に着目することが構造主義者の
特徴となるわけだが、ここでは七つの規準が与えられる。
「1. 記号界」は現実界とも想像界とも異なる構造の世界であり、
そこは「2. 局所あるいは位置」が問題となるトポロジカルで
関係的な空間である。
言葉による結合で溢れ、意味の過剰生産としての無意味な状況
にある空間において、特定の構造=言葉を見出すことで意味が
産出される過程は、抽象と呼べるものだろう。
別の構造=言葉を見出すことによって別の意味を生み出すという
構造変動は、つなぎ替え可能な抽象=理由付けである。
思考すること、それはサイコロを投げることである。
同p.64
態度と呼称、あるいは関数と変数としての「3. 微分と特異」の
二面から構造は構成され、それは現働的actualの反対としての
潜在的virtualであるとされる。
構造は、微分化différentiéeされていることで、潜在的virtualで
ありつつ実在的realでもある一方で、様々に受肉可能であるという
意味で多様性をもつ、すなわち未分化indifférenciéeであるため、
受肉の仕方によって様々に現働的actualなものになることができる。
それが「4. 分化させるもの、分化すること」の過程である。
もう半面として、構造は「5. セリー」的であることで機能する。
同一化されない複数のセリーが存在し、そこに含まれる項が
移動することで、構造は確定し、機能する。
セリー間での移動はメタファー=意味付け=空間であり、
同一セリー内での移動はメトニミー=理由付け=時間である。
セリーを駆け抜ける「6. 空白の桝目」である対象=xは、自己
という主体とともにあり、「生命壱号」を彷彿とさせる。
構造は、根源的な第三者によって、しかし自己自身の根源を 欠いている第三者によって動かされる。
構造全体に差異を配分し、自らの移動で微分的関係を変化 させることで、対象=xは、差異そのものを差異化して分化 するものとなる。
同p.85
空白の桝目に伴うものがいなくなることで神という病に陥り、
空白の桝目を占めるものが現れることで人間という病に陥る。
「7. 主体から実践へ」で述べられるのは、その構造の二つの病に
陥らない主体になるための規準である。
神でも人間でもなく、人称的でも全称的でもなく、同一性もなく、 非人称的な個体化と前―個体的な特異性から形成されるヒーローである。
同p.96
おそらく、構造を有することで微分化の意味ではある程度固定化
しつつも、投機的短絡によってサイコロを振ることで緩やかに変動
しながら、分化の意味では発散した状態というのが、壊死と瓦解の
間で集団を維持するにあたって適した状態だと思われる。
そのような視点をもてるのが構造主義的であり、それによってのみ
ユートピア=ディストピアに陥らないユートピアを描くことが
できるような気がしている。