社会心理学講義
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小坂井敏晶「社会心理学講義」を読んだ。
「有限性の後で」のp.s.に書いたが、書籍部で手に入れた
UP4月号に掲載された連載を読んで氏に興味をもった。
よい考えに出会えたと思う。
少ない言葉で要約するのがとても難しい本だが、
共感できる内容がいくつも出てくる。
そのうちのいくつかはここ最近考えていたことでもあるし、
また他のいくつかは自分にとっては新鮮であった。
〈私〉とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に 繰り返す虚構生成プロセスです。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.106
自由意志は責任のための必要条件ではなく、逆に、因果論的な 枠組みで責任を把握する結果、論理的に要請される社会的虚構 に他ならない。
(中略)人間は責任を負う必要があるから、その結果、自分を自由 だと思い込むのだ。
同p.126
悪い行為だから非難されるのではない。我々が非難する行為が 悪と呼ばれるのです。
同p.129
科学的真理とは科学者共同体のコンセンサスにすぎない。
同p.133
意志が行動を決めると我々は感じますが、実は因果関係が逆です。
外界の力により行動が引き起こされ、その後に、発露した行動に 合致する意志が形成される。
(中略)つまり人間は合理的動物ではなく、合理化する動物である。
同p.162
正しい社会ほど恐ろしいものはありません。社会秩序の原理が完全に 透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界です。
同p.216
正しい答えが一つしかないと信じるからこそ、(中略)安定した規範が 生まれるのです。
同p.236
犯罪と創造は多様性の同義語であり、一枚の硬貨の表裏のようなものです。
同p.269
犯罪のない社会とは理想郷どころか、(中略)人間の精神が完全に圧殺される 世界に他ならない。
同p.270
失業者の存在は資本主義経済の論理的帰結です。
同p.272
システムを壊す要因がシステム内部から生まれてくるだけでなく、システムの 論理構造自体にすでに組み込まれている。普遍的価値は存在しない。
開放系として社会を把握するとは、こういう意味です。
同p.276
人や物に対して、これは友人だとか、あれは机だとかいった判断をする際に 我々を支えている確信は、そのような解析的方法からは決して生まれない。
単なるデータの集積と合理的判定を超えた何か、宗教体験に通じるような 質的飛躍がここにあります。
同p.279
対象の異なる状態を観察者が不断に同一化する。これが同一性の正体です。
同p.320
集団を実体化するから、同一性の変化などという、表現自体が形容矛盾に 陥ったような状況の前で右往左往するのです。発想を転換しましょう。
世界は同一性や連続性によって支えられるのではない。反対に、断続的な 現象群の絶え間ない生成・消滅が世界を満たしている。虚構の物語を無意識に 作成し、断続的現象群を常に同一化する運動がなければ、連続的な様相は 我々の前には現れません。
同p.323
世界が同一構造の繰り返しだから比喩が有効なのではない。人間の思考パタン、 世界を理解するためのカテゴリーが限られているからです。
同p.346
最終的根拠は論理的演繹によっては成立しない。根拠は社会心理現象です。
同p.366
「虚構」という表現がよく用いられているが、まさにこの「虚構」をつくることによってしか、
社会を形成し得ないし、そもそも意識すら成立しない。
「虚構」をつくるだけの余力が脳にできたから意識ができたのだろうか。
それとも、「虚構」は必要とされてできあがり、それに合わせて脳が増大したのだろうか。
人間は他の動物に比べると弱く、高度に集団化することでしか生き残れなかったのかも
しれない。その集団形成の中で、不断の同一化が起こり、意識や社会が生まれたというのは
ありうる説明だと感じられる。
こういう説明を欲するのもまた人間らしさの一つだ。
p.279から引用した内容はディープラーニングにも通じるところがあるように思う。
ディープラーニングが一つのブレイクスルーたり得たのは、それが人間にとっての合理性の
説明を敢えて捨て去ったからだ。それによって、ここで言われているような「確信」の
レベルでの判断が可能になる。
結果として得られるものは、ある部分では虚構を含んでいないがために、人間が拒否反応を
示す場合もあるだろうが、それは多分、人間の無意識的な虚構への慣れのせいだとも思う。
p.320、p.323、p.346からの引用は、何を同一とみなすかが認識の、ひいてはそれぞれの意識の
特徴のキーになるというイメージに通じる。
こういう本を読む度に、伊藤計劃の射程の遠さが感じられる。
「ハーモニー」で、意識という虚構を後天的に獲得したミァハが、老人たちにスイッチを
押させることで虚構生成プロセスを終了させる。その後に成立する「合理的な社会」は
もはや今でいうところの社会ではなく、虚構性は持ち合わせていないだろう。
p.s.
序においてポアンカレの「科学と仮説」が引用されているが、引用箇所が
ちょうど「事実の集積が〜」のところであった。結構有名な言葉らしい。