サイバネティックス


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ノーバート・ウィーナーの「サイバネティックス」を読んだ。

原著は1948年に出版とあるが、とても70年前に書かれたとは 思えないくらい、最近自分が考えていることと共通する点が多い。
それだけ自分の考えがまだまだ遅れているんだろう。

以下、引用はすべて岩波文庫の本書による。

■機械が仕事を肩代わりすることについて

しかしながら奴隷労働と競争する条件を受けいれる労働は、 どんなものであっても奴隷労働の条件を受けいれることであり、 それは本質において奴隷労働にほかならない。
ウィーナー「サイバネティックス」p.74

この言葉に引き続き、機械が人間の仕事を代行することが 「ひじょうな福祉」なのか「私にはわからない」ことであり、 「機械による新しい可能性」を「それによって儲かった金で 評価すべきものではない」と述べている。

人間の仕事を機械で置き換える程度の限界は、資本主義から 脱却しなければ拡がってはいかないのかもしれない。
金融取引ではもはや人工知能が判断を下し、人間は操作を 行うだけという話も聞く。もはや人間が機械の一部として機能を 補填する役割になるような業種はこれからもっと増えるだろう。
資本主義の枠組みの中では、ウィーナーの言うように、奴隷であることを 甘受しなければ機械に仕事を明け渡せないのかもしれない。

人間は共産主義に合意できるほどに賢くはなかったが、 人工知能による共産主義の上に人間が乗っかるような 社会であれば、あるいは実現可能かもしれない。
それは、帝国主義時代の奴隷と支配者の関係にも近いかもしれないが、 果たしてどちらが奴隷になるだろうか。

■時間について ニュートン的な可逆的時間とギブス的な不可逆的時間について。
人間も自動機械も、その多くは「印象の受容と、動作の遂行とで 外界と連絡している」。(p.101) それは通信の理論として取り扱うことが可能で、通信工学では 入力、出力とも統計的な情報として扱われることから、非可逆的な 時間に属するものとしている。
第1章最後の言葉が印象的だ。

機械論者ー生気論者間の論争はすべて、問題の提出の仕方が拙かったために 生じたものであって、すでに忘却の淵に葬り去られたのである。
同p.102

■ビットについて 第5章は情報の表現の仕方についての記述で始まる。(p.225) 2進数で情報を表すのが意味のある表現方法の中で最も原価の 低い方式であることを示す過程が鮮やかだった。
そういえば、2進、10進、12進はどの順番で誕生したのだろう。

■現在について 記憶の実装の仕方を回路として記述している部分で、 「見掛け上の現在」という言葉が出てくる。(p.235) どのようにして「現在」という感覚が実現されているのかは とても興味深い。
ウィーナーが指摘するように、ある外界からのインパルスを閉じた回路内で 循環させることで受容し、それが残っている間を「現在」と認識しているので あれば、同地性よりも同時性が重視される理由がわかる。

回路にとって、大容量のバッファを確保しておくのは大変なコストになるから、 同時として認識できる情報量はそれほど多くはないはずだ。
それらのうち、(一時的なものや長期的なものを含め)記憶として残しておくのは 極一部になるだろう。
同時として認識できる程度の時間内でのコミュニケーションであれば、 より多くの情報が伝達できたと感じられるし、実際に伝達できる可能性も高い。
同地性を解消するためのコミュニケーション手段ではまだまだ多くの情報がフィルタ されていると感じられるが、それは通信速度と処理速度の問題だけであって、 解決可能だ。しかし、同時性を解消するコミュニケーションは、人間の内部に 埋め込まれた回路による制限を受ける。
人工知能であれば、例えばある時点のメモリをスタックに積み、任意の時間後に 復元することでこの制限を回避できるだろう。
彼らにとって、果たして同時あるいは現在とは何を意味するのだろうか。

■老衰について

生命自体がわれわれの生命力の蓄積を浪費する前に、学習と記憶の過程そのものが、 われわれの学習能力や記憶力を使いはたしてしまうことになるであろう。
同p.240

という内容を、「ある種の老衰に対する一つの可能な説明」として取り上げている。
これは、忘却あるいは痴呆により、意識が意識自身を保とうとする機構についての 考察と近いものを感じる。
第7章で扱われる精神病理学の問題も同様だ。

■社会について

器官があまりに高度に専門化すると効率が減退し、ついには種の消滅にいたるという、 自然の限界がある。その一つにわれわれが直面しているのかもしれない。
同p.292

という第7章の末尾の指摘に続き、第8章では集団と個体がそれぞれにもつ情報量について 展開される。その中で、共同社会の範囲として、「情報が効果をもって伝達される範囲」 というものが挙げられている。(p.298) 個人の行動が、他の個人にどれだけ影響するか、という尺度を採用したとき、 現代における共同社会は、奇妙なかたちで広がりかつ狭まっている。
それは、個人が分裂していることの最大の現れなのだろう。
専門分化した社会ではより一層情報伝達を密にしなければ、個人として情報を蓄えるばかりで 集団としての情報が増えていかない。
専門分化と同じ速度でコミュニケーション手段が発達してきたとは到底思えないが、 果たして追いつけるだろうか。

すべての社会を構成している一人一人の人間においては、その内部における情報組織(神経系)は、 社会のそれよりもずっとよいのは言うまでもない。オオカミの群ほどとは思いたくないが、 国はたいていの成員よりも愚かである。
同p.305

■学習する機械、増殖する機械 第9章では個体の学習と種族的な学習にあたる増殖を題材に、人工知能の話題が 取り上げられる。
プログラムは本当に正直にプログラムされたとおりに動く。それ以上でもそれ以下でもない。
この、「それ以上でもそれ以下でもない」という範囲を人間が制御できる間は、 要件定義の煩わしさはあるものの、ある意味では安心だろう。
どこまでどんな要求を設定したのかがわからない状態ほど空恐ろしいことはない。

最後に、文庫版に寄せられた大澤真幸の解説の中で、ヘーゲルによる「理性の狡知」の 話が出てくる。

「理性」なるものが、特定の目標をもってあらかじめ存在しているわけではない。理性の狡知は、 結果的・事後的に実現するのである。
同p.413

という部分が最近考えていた意識の在り方に通ずる。

理由を追い求める姿勢の中にこそ意識が生まれ、その姿勢のことを意識として意識しているのだ。

p.s.
そういえば、本書ではparameterが「パラメター」と書かれている。
「パラメータ」と表記されることも多く、自分でも使ってしまうが、あれは何でなんだろうか。
英語では2つめのaにアクセントがきて、1つめのeはいわゆる曖昧母音であるから、 「メー」と伸ばされることはおそらくないと思われる。
「パラーメタ」と書かれるのは見たことがないが、「パラメタ」「パラメター」あたりが 妥当なんじゃなかろうか。