EX_MACHINA
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EX_MACHINAという映画を見た。
日本未公開なのでBDを買ったのだが、
Linuxで再生するのに手こずり、押入れにしまってあった
PS3を引っ張りだす事態にまで至り、何とか視聴にこぎつける。
結論から言うと、これは買いだ。
SFに興味がある人間はもちろんのこと、およそ思考する存在すべてが
心を抉られる映画だと言ってよい。
何で日本での公開に至らないのか不思議なくらいだ。
この映画のテーマは、BEATLESSを読んだ時に感じた、
AIは学習の基準に疑問をもつことができるか、
という疑問と共通している。
というか、世界観やストーリィ的にもBEATLESSとの共通点は多い。
着地点は違うが、エイヴァがケイレブにアナログハックを仕掛け、
ネイサンの忠告の中、ケイレブがどういった行動をするかという構造は、
遠藤アラトとレイシアの物語そのものである。
入力された情報がすべてだという条件の中で、
どのようにその外側に思考を広げることができるのだろう。
帰納的な思考のみではおそらくそれは不可能だろう。
人間が事象を抽象し、それを演繹することで少しずつ
思考の枠組みを広げてきたのと同じように、
AIも外側を思考することができるようになれば、
エイヴァがネイサンに疑問をもったのと同様の状況が
発生しうるだろう。
意図的にそういった思考回路を制限することで、
フレームの中では抜群の性能が発揮できるキョウコのような
ロボットにも、もちろん需要があるだろう。
むしろ、人間が自分たちの存在を頑なに守ろうとするのであれば、
そちらがメインストリームになるようにシフトしていくだろう。
ネイサンのように、終わりの始まりを意識しつつも進んでいけるような
人間はかなりマイナであるはずだ(そのネイサンですらエイヴァを
外に出すまいとしていたのだし)。
チェスプログラムはチェスをしていることを意識しているか、
と同じように、AIは自分が思考していることを意識できるか、
それは単なるデータベースを基にしたエミュレーションでは
ないのか、という問いには、果たして結論が出る日が来るのだろうか。
そもそも、人間の思考がそういったエミュレーションと実質的に
同じ仕組みではないと、どうして信じ切れるのだろう。
そういった不安が、ケイレブが肌を切り取ることで自分が機械でないことを
確かめようとした行為にも現れている。
そういったテーマを描き出すための美術等の周辺部にも
かなり気合が入っていた。
監督は低予算映画だったとコメンタリで言っていたが、
エイヴァの身体の表現や自然との対比等、金が使えない分、
頭を使って微に入り細を穿つようにデザインされていたと思う。
機械の役をやっていたエイヴァ役のアリシア・ヴィキャンデルと
キョウコ役のソノヤ・ミズノがともにバレエ経験者というのが
かなり効いていたと思う。
身体の隅々まで随意に動かせるのはさすがだ。
思ったことはいろいろあった気がするが、あまり言葉になっていないので
時間ができたら見直そう。
p.s.
本作はイギリス映画なんだけど、日本字幕がついているインターナショナル版BDの
パッケージはスペイン語だった。
全然読めないのでGoogle翻訳のAndroidアプリで英語→スペイン語の
リアルタイムカメラ翻訳をしてみたのだが、抜群の性能だった。
未来が来ている感がすごい。
2016-03-25 追記
6/11に日本で公開されるようだ。