屍者の帝国
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伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」を読んだ。
正直、この小説の存在自体が、長いこと苦手であった。
                    出版された数週間後には取り敢えず単行本を買っていたのだが、
                    少し読んだっきり放置したまま、四年近くが経っていた。
                    伊藤計劃を読みたい反面、円城塔がそれを書き継ぐというのは、
                    どういうことなのかということを消化しようと踏み切るのに、
                    それだけの年月が必要だったのかもしれない。
円城塔が「あとがきに代えて」で述べているように、伊藤計劃が
                    構想した、「死んでしまった人間を労働力とする」物語を、まさに
                    そのままやってのけたという点では、ほとんど唯一無二になり得、
                    エピローグのⅡにおけるワトソンとフライデーの関係は、
                    どうしても伊藤計劃と円城塔として読んでしまい、さながら
                    円城塔による「あとがき」に見えるのである。
                    (このあたりを詳細に解読した佐々木敦のパラフィクション論が
                    秀逸なのだが、その話は記事を分けて書く)
言葉を主題にした「虐殺器官」、意識を主題にした「ハーモニー」、
                    その両方を引き受けた上で、「ありがとう」の五文字を展開する
                    ために、「死者を働かせ続ける」作業をやり遂げ、こうして
                    一冊の本にしたのは見事だ。
あえて、「死者を働かせ続ける」という労働を取り上げれば、
                    心理的身体を維持するための仕組みとしての労働の話に
                    展開させるのも面白いと思う。
                    An At a NOA 2016-11-29 “労働”
労働からの解放およびベーシックインカムの導入により、
                    「勤労の美徳」という倫理観からも解放されて数十年が経つと、
                    若年性認知症の報告数が飛躍的に増加した。
                    認知症とは心理的身体の喪失であり、労働によらず心理的身体を
                    維持できるのは、外圧によらなくても理由付けを継続できる
                    一部の人間のみである。
                    物理的身体が機能停止することで死者になるのに対し、
                    心理的身体が機能停止することで屍者が生まれ、その物理的身体は
                    至って健全である。
                    そこに「勤労の美徳」がインストールされることで労働力になり、
                    人々は再び労働に駆り出されるようになる。
                    しかし、その労働は意識の存続以外には本質的に無意味であり、
                    意識は意識自身の延命措置として労働から逃れられなくなる。
「ハーモニー」でスイッチが押された後の、その先の物語として、
                    「わたし」という意識が実権を取り戻す過程としての「屍者の帝国」
                    というのも、あるいはあり得たかもしれない。