プロトコル


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アレクサンダー・R・ギャロウェイ「プロトコル」を読んだ。

本書では、分散型アーキテクチャを有する管理=制御型社会に おける通信の基盤をプロトコルと呼び、これまでの中心化した 君主=主権型社会や脱中心化した規律=訓練型社会との比較から、 デジタルコンピュータの普及とともに管理=制御型社会が広範化 していく可能性を検討する。
通信が成立するところには必ず通信の基盤となる同一性の基準が 存在するため、プロトコルに相当するもの自体は生命そのものと 表裏一体であり、デジタルコンピュータに限った話ではない。
しかし、単に通信を可能にするための基準だけでなく、どのような 通信を許可するかといった基準を含むかたちで、通信の基盤は 暗黙のうちに肥大化してしまう。
分散型アーキテクチャに特徴的で、デジタルコンピュータが体現 するのは、肥大化することを抑制し、通信可能性だけに絞った 通信の基盤だと思われる。

中心化→脱中心化→分散という集団形態の変遷は、通信の基盤を 絞り込んでいく過程であり、それは構造主義的な見方を突き詰める ことで、通信可能性までたどり着いた。

プロトコルの論理にもとづくシステムの限界と、そのシステムの うちにある可能性の限界とはおなじことである。
アレクサンダー・R・ギャロウェイ「プロトコル」p.107
プロトコルとは、可能性と同義である。
同p.278

という指摘は的を射ているし、

プロトコルが意味に影響を及ぼすことはない。
同p.107

というのも、プロトコルは通信可能性のみを担保し、それ以上の 解釈を付与しないという意味では妥当である。
(ただし、通信が可能であること自体に何らかの同一性の基準という 正義が埋め込まれるという意味では、あらゆるプロトコルはどれだけ 削ぎ落とされようとも、不可避的に解釈とともにあり続けるはずだ) サイバーフェミニズムは通信可能性を女性的なもの、肥大化した 部分を男性的なものに関連付けるが、これは母権制から父権制への 移行が通信の基盤の肥大化によって生じるという見方だと言え、 分散型アーキテクチャは母権制の再来とみなせるのかもしれない。

通信可能性を担保する同一性の基準は正誤の基準であり、そこに 善悪の基準が付与されることが肥大化の要因だと言えるだろうか。
An At a NOA 2017-09-15 “過誤
分散型には秩序や構造がないわけではなく、中心化や脱中心化では 通信の基盤の肥大化によって現働的actualな意味での構造が固定化 しているのに対し、分散型では潜在的virtualな意味で構造が存在する。
「誤り」は単に通信不能をもたらすが、「過ち」が通信不可として 弾かれることで、集団は中心をもつようになり、潜在的virtualにだけ でなく現働的actualに構造が固定化する。
現働的actualに構造が固定化した集団では、通信基盤に埋め込まれた 善悪の基準が中心からの監視として現れ、集団からの逸脱が予防 されるが、潜在的virtualに構造が固定化した集団では、相互監視に よって逸脱が予防される。

構造は、微分化différentiéeされていることで、潜在的virtualで ありつつ実在的realでもある一方で、様々に受肉可能であるという 意味で多様性をもつ、すなわち未分化indifférenciéeであるため、 受肉の仕方によって様々に現働的actualなものになることができる。
An At a NOA 2017-08-18 “何を構造主義として認めるか

という構造主義の理想は、デジタルコンピュータの時代に可能に なるのかもしれないが、依然として善悪の基準を引きずることに 慣れており、まだまだ現働的actualな構造が未分化な状態には 耐えられないように思われる。

ただ、SNSが既存のマスメディアに影響を与えるようになり、 意思決定プロセスに変化が生じていることを思えば、リアルな 世界でも少しずつ通信基盤からいろいろなものが削ぎ落とされ つつあるとも言える。
その次には新たな善悪の基準が敷かれるだけなのかもしれないが、 通信可能性だけが残るまで削ぎ落とされたとき、潜在的virtualな 構造だけを基盤とした現実世界が、文字通りのVirtual Realityと してのユートピアになるのかもしれない。
その世界では、もはや固定化された順序構造が共有されることは なく、時間は充足理由律とともに薄められているのだろう。

言葉は通じるのに話の通じない相手があふれる世界では、 如何にして話をしたらよいだろうか。