攻殻、あるいはharmony
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広島さんにはがっかりです。
それはそうと、攻殻機動隊の新劇場版を観てきた。
ラストのつながり方はこれまで攻殻機動隊を
観てきた人間にとってはとてもうれしかった。
第三世界の問題とは、つまり、人でも物でもなく、
情報としての存在可能性だろうか。
その区分における、人と物の境目はどこにあるのだろう。
・人とは、物理的インターフェイスを伴っていて、
そこに意識を想定できる対象
・物とは、物理的インターフェイスを伴っていて、
そこに意識を想定できない対象
・情報とは、物理的インターフェイスを伴っていないもの
としてみると、物理的インターフェイスを取り外されたときに、
意識があり続けられるかということになる。
FacebookやTwitterの投稿の向こうに、私はいつも
意識を想定してしまいたくなる。
明らかなbotを除けば、綴られているテキストには
それを打ち込んだ人間を想定するのが、現状は極自然だ。
だが、ある人が書き、話した言葉をすべてDeep Learningのように
学習させたものにTwitterをやらせたとしたらどうなるだろう。
そこに意識を誤認する人間がマジョリティになるときは
果たして何年後にくるだろうか。
果たしてそれは誤認なのだろうか。
なぜ、そこにもう一つの意識が生まれていると想定できないのだろうか。
多分それは程度の問題に過ぎない。
- 認識された意味
- 知覚された光
- モニタに表示された文字
- ネットワークを伝達してきた電子情報
- キーボードをタイプした指の動き
- 腕の筋肉を動かす指令としての神経パルス
- テキストの内容を推敲したニューロンの網
- ニューロンの間を行き交う化学物質
一体どこに意識は意識をみるのだろうか。
かつて、コンピュータの黎明期には、研究所等に置かれる
メインフレームを中心に、小さなネットワークの中で
各端末がアクセスするという形態だった。
そこから、パーソナルコンピュータが普及したことで、
演算をする場所も記憶する場所も、物理的に拡散し、
その間をインターネットがつないだ。
そして今、クラウド化が進む中で、あらゆる機能が次々と、
再び集まりつつある。
意識の歴史がこれと符合するというストーリィは
とてもSF的だが面白くないだろうか。
かつて、意識が個体に実装される前に、例えば種に
相当する程度の大きさで共有される意識があった。
個体の脳は処理速度も遅く、記憶領域も狭いため、
その方式が現実的だった。
あるときから、脳が大きくなることで、意識を
埋込むことが可能なだけのリソースが個体に獲得された。
ちょうどwindows95が爆発的に売れたように、
あるタイミングでスタンドアローンで動ける個体が
爆発的に増えたはずだ。
この段階で、個体同士がそれまでは共有意識を介して行っていた
コミュニケーションを維持するため、言語を必要とし始める。
そんな時代が長く続いた後、変化のときが訪れる。
あまりにも処理・保存すべき情報が増えすぎたため、
個体は情報をアウトソースする必要が出てくる。
まず始めにアウトソースされたのは記憶だ。
DropboxやGoogleDriveのように、様々な知覚情報を
何らかのかたちで個体の外部に保存する。
文字、絵画、写真等、かたちある物に対して、情報を
埋込み始めていく。
物理的インターフェイスを脱ぎ捨て、電子情報で
保存できるようになることで、その傾向はさらに加速する。
石板に刻む文字、紙に書く文字、パソコンに打ち込む文字。
いずれも保持するデータ量が同じだとしたとき、
おそらく記憶媒体の大きさも、それを扱うのに個体に必要と
される情報も、右にいくほど小さく、少なくなるだろう。
次は演算能力がアウトソースされるだろうか。
その傾向がますます進むことで、個体の脳はより小さくて
済むようになる。
未来の意識は、コミュニケーション能力だけをもち、
判断は外部記憶を基にした外部での演算結果を受信することで
下される。
そこにはもはや今の意味での意識は見出せないのではないだろうか。
あるとすればクラウドの先のサーバの中だけだ。
そここそがまさに、第三世界たりうる唯一の場所かもしれない。
とてもharmonyの世界だ。