3D-Printed Steel Bridge
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The First 3D-Printed Steel Bridge Looks Like It Broke Off an Alien Mothership
3Dプリントされた鋼橋。
さすがに現場でプリントするまでには至っていないようだけど、
工場に置かれた橋は3DCGと見紛うばかりだ。
一本の直線もない形態へのこだわりは、
非線形を線形の張り合わせに置換することこそ「理解」という
言葉の意味するところであった「近代」という時代への決別を
表明するかのようである。
直線の覇権とは文化一般にみられる現象ではなく、 近代の現象なのである。
ティム・インゴルド「ラインズ」p.238
しかし、安全性の確認をはじめとして、あらゆる部分が科学や
技術といった近代を受け継ぐものに支えられているはずであり、
実際のところは、非線形の線形化がvirtualなレベルで高速かつ
精密にできるようになったことで、actualなレベルでの線形化が
不要になったということなのだろうと思う。
橋の側面がトラス状になっているのを見て、virtualなレベルでも
保存される形式こそ構造的だと言えるなということを考える。
構造は、微分化différentiéeされていることで、潜在的virtualで ありつつ実在的realでもある一方で、様々に受肉可能であるという 意味で多様性をもつ、すなわち未分化indifférenciéeであるため、 受肉の仕方によって様々に現働的actualなものになることができる。
An At a NOA 2017-08-18 “何を構造主義として認めるか”
こうやって、複雑な形状でもトラスとして捉えてしまうのは、
単純化という近代的な理解の一形態だろうか。
でも、virtualにおいて高速化され精密化された線形化を人間が
再現できなくなったときにこそ、人間の人間による人間のための
単純化が必要とされるように思う。
単純化とは、より離散的な記号への置き換えであり、
つまりはdigitizeやdesignである。
理由が明快なものを「人工」、そうでないものを「自然」と
呼ぶとすると、近代までは、人間の作るものはactualなレベル
まで線形化された人工的なものばかりであり、何かを作るという
のはすなわち自然の人工化ということだったと思う。
専門分化が進むとともに、個々の人間レベルでは難しくなっても、
集団としては依然としてかなりの程度に人工化していると思うが、
人間の作るもの、人間の作るものが作るもの、人間の作るものが
作るものが作るもの、というように、人工化のレベルがよりメタ
になっていくにつれて、actualなものは次第に人工から自然へと
近づいていく。
その過程の中で、次々と生まれる新たな自然の人工化を諦めたとき、
「BLAME!」のような、かつての人工が自然化した世界が訪れ、
「意識」や「理解」といったものが時代遅れになるのだろう。
こういう構造物の安全性については、壊れるところを何度も
観察することで形成した力学的な直観で判断できることも
あるだろうし、精緻なFEAモデルを用いた解析を通して判断
できることもあるだろう。
しかし、抽象化の解像度は、粗過ぎても細か過ぎても、その
判断を伝達するのには向かないように思う。
個人的には、その両極の間にある、適度な単純化を通した
判断もできるようでありたい。