Post-truth
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和田隆介さんによるWADAA2016の総括に、
                    Post-truthという言葉が出ていた。
いくつもあり得るはずの理routeを、唯一だと
                    仮定することで真理truthが現れるという話を
                    以前書いた。
                    An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖”
truthを仮定することによって、集団は維持されて
                    きたが、Post-truthの時代において、集団の在り方は
                    どのように変わるだろうか。
                    ここで集団と言っているのは個人の集まった社会に限らず、
                    一人の個人の在り方にも関わる。
                    心理的身体は、一つだという自覚がありつつ、コミュニティに
                    応じて発現の仕方が違っているということが多い。
                    物理的身体が直には現れない、ネットワーク上の
                    コミュニティにおいては、それがさらに顕著になる。
                    もはや一つの心理的身体の別側面なのか、複数の心理的身体
                    なのかは不明確であり、そもそもそれを明確化する必要もない。
truthの時代というのは、そういった境界を明確にすることで
                    集団を強固にしていたということだろうか。
                    だとすれば、Post-truthの時代には、その都度設定されるrouteを
                    頼りに、temporaryな集団が立ち上がることになるだろうか。
                    「ポストモダンの思想的根拠」を読んだときに考えたことにも通ずる。
Post-truthにおけるtruthの採用の仕方は、投機的短絡と似ている。
                    固定化を免れるために、常に本来の意味でのhuman errorを含んだ
                    routeが探索され、複数の視点でチェックされることで仮のtruthに
                    なったrouteは、そこに現れる集団のrootになる。
                    これが上手くいくと、correctnessに執拗にとらわれない、rightnessに
                    よる集団が出来上がるのだろう。
p.s.
                    Post-truthという語について調べてみると、「真実や事実ではなく
                    感情に訴えること」というニュアンスで語られていることが多く、
                    真実というものは本当はあるという仮定を崩していないようである。
                    その思い込みに対する反動として、Post-truthと呼ばれるに至った
                    のだと思うのだが。
正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが 生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。
小坂井敏晶「責任という虚構」p.166