意思決定
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公共事業を止めるノウハウは国立競技場→豊洲の流れで確立したと言える。それっぽい肩書のアジテーターを使い、検証が追い付かない量の「根拠の薄い疑惑」を絶え間なく連発。朝昼の情報バラエティがそれを右から左に放送して不安を煽り、最後は「安全かもしれないが安心ではない。全て行政の説明不足」 https://t.co/LqDghv45OS
— 木曽崇:「日本版カジノのすべて」発売中 (@takashikiso) 2016年9月26日
新国立の問題でもその力を発揮したが、ソーシャルメディアの発達によって これまでにないかたちで世論が形成されるようになってきている。
絵を描く人間はこれまで以上に懇切丁寧に絵を示していかないと、 簡単にひっくり返されてしまうようになってしまったのは 由々しき事態だなあと思う。
An At a NOA 2016-03-19 “目先”
日本の意思決定システムはここ数年で大分変わった感がある。
以前は引用ツイートにあるようなことは、一部では言われても
それが実際の懸案事項までのぼることは少なかったように思う。
近代は個人への分解と同時に、学問の細分化を進めることで、
人間の知識の発達を促した。
その代償として、ポアンカレのような、多くの学問の最先端に
通じている人間はもはや存在しなくなった。
学問の細分化によってすぐ近くの分野の言葉もわからなくなり、
異なる分野で同じような悩みを抱えているという状況はあり、
その反省から学際ということも言われるようになって久しい。
各々が自身の分野に関しては責任をもち、他分野との連携の
ために通信を行うという形式は、こういった細分化が進んだ
領域では望ましい。
話す言葉が少しずつ違う者同士での通信は確かに多少の困難を
伴うが、それでも目指すべき方向が定まっていればそれは
些末な問題だ。
日本の意思決定の変わりようは、そういった変わるべき方向に
関する共通認識の不在なのか。
単にリスクとコストについての認識違いや短期的判断への
偏りというだけな気がする。
それはもう、国自体が年をとったということの現れである。
まるで、もう長くはない余生を、何事もなく少しでも延命したいと
願っているだけのように見える。
固定化に向かうのも無理はない。
くだらん。