沈黙
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マーティン・スコセッシの「沈黙」を観てきた。
非常によく原作を読み込んでいるように感じられ、
とても成功した実写化だと思えた。
原作が好きな人間を裏切らない、よい映画だと言える。
遠藤周作の「沈黙」を読んだのはほぼ3年前だ。
長崎へ旅行し、外海を見てきた。
An At a NOA 2014-02-16 “長崎旅行2014①”
An At a NOA 2014-02-20 “長崎旅行2014②”
An At a NOA 2014-02-23 “長崎旅行2014③”
その後、千原英喜の「おらしょ」を指揮する機会を得て、
皆川達夫「オラショ紀行」の遠藤周作のインタビューを
通して「沈黙」に対する理解を深めた。
An At a NOA 2015-10-12 “音楽と言葉”
表題の「沈黙」のとおり、映画でも無音や止め絵、暗転等の
聴覚的沈黙あるいは視覚的沈黙が効果的に用いられている。
クライマックスもそうなのだが、個人的にはエンドロールが
最高だった。
「沈黙」において、神が黙っていることの一番のモチーフは
モキチやイチゾウが死んだときの海の静けさであり、黒背景と
白い文字に、虫の声と波の音だけが流れるエンドロールとして
描かれていたと感じた。
この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を ―神が人々の歎きの声に腕をこまぬいたまま、 黙っていられるような気がして……。
遠藤周作「沈黙」p.93
映画では、雨や太陽もしっかりと描かれていた。
残念ながら手元には所持していないのだが、山根道公の
「遠藤周作 その人生と『沈黙』の真実」という本に、
「沈黙」では雨がモチーフになっていると書かれているようだ。
それはおそらく、信仰あるいは迫害の対象としてのキリスト教の
モチーフである。
昨日も雨でした。もちろん、この雨はやがてやってくる雨期の 前ぶれではありません。
同p.44
そしてもし彼が生きているとしたら今、この重くるしい雨を何処で、 どんな気持ちで耳かたむけているのでしょうか。
同p.50
ああ、雨は小やみなく海にふりつづく。そして、海は彼等を 殺したあと、ただ不気味に押し黙っている。
同p.91
逆に、フェレイラとの再開やロドリゴの踏絵のシーンでは、
太陽が日本や仏教といったキリスト教と対立するものの
モチーフになっており、それが「日向の匂い」という当初の
題の意図なのではないかと思う。
老僧は立ちどまると、無言で司祭を一瞥し、西陽の照りつける 板の間の隅にあぐらをかいた。
同p.222
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。
同p.268
この年の夏は、雨が少なかった。
同p.269
あの西勝寺で彼と始めて会った時も、この肩に陽差しが あたっていた。
同p.276
当初の題の「日向の匂い」については、沢野忠庵や岡田三右衛門
となった転びのパードレ達が、穏やかな日々を送る中でふとした
瞬間に感じるものだという話を読んだ記憶があるのだが、何の文章
だったか思い出せない。遠藤周作文学館だったか。
そういう意味でも、日本的日常を表すものとして「日向の匂い」
という題名にしたかったのかもしれない。
大いなる原因である一神教の神が沈黙するというのは、
理由の不在として解釈することもできる。
ものごとには必ず何らかの理由があるとする充足理由律の
終着点にいたはずの神は、沈黙したまま何も答えてくれない。
つまり、究極の理由が宙吊りになる。
そこに至って、ロドリゴという人間の側に理由の在り処を引き寄せる
という結末に、どこか仏教らしさを感じてしまうのだが、それもまた、
キリスト教徒だったとは言え、日本人が描いたからなのかもしれない。
そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は 沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について 語っていた。
同p.295
映画では十字架を盛り込むことで、これとは違った終わり方にしたと
言えるが、そのあたりはスコセッシという西洋人としての考えが
あるのかもしれない。
もう一箇所少し残念だったのは、モキチが波打ち際で歌うオラショが
賛美歌として描かれていたことだ。
「オラショ紀行」によれば「じごく様のうた」は日本で作られた歌の
ようだが、しきりに「パライソの寺に参ろうや」と唱えるあたりに
宣教師と切支丹のパライソの捉え方のずれが出ており、そのことが
「彼等流に屈折された神」としてフェレイラや井上らによって
指摘されることに対応しているので、惜しいと思う。
敬虔な一神教の教徒ではなくとも、西洋の人間の受け取り方は
また違ったものになるのだろう。
そういった感想も読んでみたい。