QUERY: 大域

局所と大域 研究テーマが局所安定性と大域安定性の話に至り、 熱力学や統計力学、エントロピーに関する本を
職業としての学問 逆に、価値自由になれず、善悪の此岸に留まっていては、 自らの局所の判断基準を、別の局所を含んだ大域へと 拡張するという過ちを犯す。
社会思想の歴史 フロイトによるエロスとタナトスの永遠の戦いという アンビヴァレントな感情もまた、大域化の傾向とその 解体の現れである。
社会思想の歴史 ウェーバーは禁欲的プロテスタンティズムに端を発した 合理化が、「資本主義の精神」として大域化したことを 鮮やかに示した。
社会思想の歴史 加速する合理化が局所の範囲を引き伸ばすに連れて、 大域が局所と同一視されるようになるのが、社会と いう発想、近代という時代の始まりだろう。
社会思想の歴史 することで、フォイエルバッハやマルクスといった、次の 局所最適化の流れが始まり、大域化によって神に占められて いた主役の座は人間へと明け渡される。
社会思想の歴史 マルクスは、「類的存在」=「交通でつながれた局所」 として人間を捉えることで大域化に抵抗した。 商品が生みだされる呪物崇拝という自己疎外の過程は、
社会思想の歴史 商品が生みだされる呪物崇拝という自己疎外の過程は、 局所の大域化がもたらす、ある種のフェティシズムと 呼べるかもしれない。
社会思想の歴史 テンニエスのゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの やむことなき進行は、合理化に伴う局所の大域化が避け られないことへの言及であるが、これが諦めとしてよりも
社会思想の歴史 ヘーゲルは局所同士の矛盾が次々と止揚される運動である 弁証法を大域最適化とみなし、「理性の狡知」を見出した。 ヘーゲル学派が、その内容からして当然のように、
社会思想の歴史 ウェーバーは合理化がやむことなく進展する現実と、 それが孕む局所の大域化の危険性を冷静に見つめ、 神に自覚的であり、「知的廉直」であることを要求する。
社会思想の歴史 によって脱却を目指す。 確かに、合理化が局所の大域化を伴う限り、過度に進行 した合理は非合理と見分けがつかないことになると思うが、
社会思想の歴史 と指摘されるような局所の大域化に陥った後で左右に分裂 することで、フォイエルバッハやマルクスといった、次の
社会思想の歴史 防ぐ機構として有用だったかもしれないが、合理化が 加速した近代においては、むしろ局所の大域化を過度に もたらしてしまっているように思われる。
社会思想の歴史 唯一神の交代劇から、合理化自体によっては基礎づけ られない相対的な神々の争いへと移行し、局所の大域化を 免れた合理化が可能になる。
社会思想の歴史 合理化そのものへの抵抗と言うよりも、局所最適化 としての合理化が不可避的に伴う、局所の大域化に 対しての抵抗のように思われる。
社会思想の歴史 いかなる合理化も局所最適化の一つでしかないのに、 近代ではそれが大域最適化に化けてしまう。 本書で描かれる社会思想の歴史は、合理化とそれに
現代社会の理論 されることで、近代社会が形成された。 加速する合理化の中で、局所の集積が大域という一つの ものとして認識されるようになると、それはもはや、
共同体の基礎理論 認識されるという局所の大域化が済んでおり、もはや判断基準や 構造は意識されることなく埋め込まれている。
共同体の基礎理論 ゲマインシャフトは、構造が固定化して埋め込まれた状態であり、 ゲゼルシャフトは、通信の変化に付随して一時的に局所と大域が 分離することで構造が顕在化した、ゲマインシャフトからゲマイン
共同体の基礎理論 いかなる局所も、通信の仕様によっては大域と同一視され得る。 通信技術は局所=大域化が可能な最大領域を決めるが、局所が
共同体の基礎理論 通信技術は局所=大域化が可能な最大領域を決めるが、局所が その最大領域に達していると認識されている状態がゲマイン
共同体の基礎理論 され、その判断基準や構造が真理のように映る。 そこでは判断基準の共有によって規定される局所が大域として 認識されるという局所の大域化が済んでおり、もはや判断基準や
実在への殺到 その拡大もまた短絡の投機性に起因しているような気がしており、 近代において「専門分化による精緻化」と「局所の大域化」が結び ついていたことを彷彿とさせる。
実在への殺到 そこではもはや順序構造は一つに定められず、エントロピーの尺度も 一つではなくなるから、大域的な絶対時間ではなく局所的な相対時間 だけが有効になる。
一つの全体へと収束する傾向、「ほんと」への希求、 アーリア神話、グローバリゼーション、局所の大域化が、 擬の仕方、抽象の基準を固定化することによって現れる
借りの哲学 かつての《返すことのできない借り》に支配された世界では、判断基準が二度と変化できないように固定化されることで、個々の集団は壊死へと向かっていた。資本主義によって特定の判断基準が大域的に共有されるようになると、《等価交換》によって《返すことのできない借り》を解消することができるようになった。その代わりに、貨幣という大域化された判断基準のみを共有すればよくなることで、新たな《借り》も生じず、局所的な集団も形成されることがなくなった。それは結局のところ、大域的な判断基準が固定化することで壊死へと向かう過程だったと言える。
借りの哲学 全体的に楽観的な印象を受けるが、もう一度《借り》に着目し、局所的にも大域的にも壊死を免れるような「《借り》をもとにした社会」を目指すのはよいと思う。返すことのできる、別の人に返してもよい、あるいは返さなくてもよい《借り》が次々に発生し、変化=発散することで固定化を免れる。だけどそれが《借り》であることによって、連鎖が止むことはない。局所的には集団の発散に着目した性悪説っぽさがあるのに、大域的には集団の固定化に着目した性善説っぽさがあるところが、楽観的に映るのかもしれない。 An At a NOA 2017-08-16 “性善説と性悪説
遠い娯楽と近い娯楽 鬼ごっこや「どちらにしようかな」の掛け声の ように、大域的な基準がなく、それぞれの地域の バリエーションが豊富だけど、多くの人が知って
ピアノを弾く哲学者 近代の絶対時間や貨幣という大域的基準が語ることで設定する 唯一のエントロピーの尺度がある一方で、「それはかつてあった」
アローの不可能性定理 民主制にとって不可欠な4つの条件を満たす社会厚生 関数が存在しないというのは、民主制においては大域 的なエントロピーの尺度が存在しないことを意味し、
組織の限界 近代以降、専門分化と局所の大域化によって、組織による 効率性の追求が目指されてきたと言える。
物語の摂取 Stockfishの方は両者のレーティングがほぼ同じ値である。 チェスにおける理由付けはほとんど大域的最適化ができているという ことかもしれない。
江戸の想像力 近代的な局所の大域化による固定化への収斂が始まる以前、 壊死と瓦解のあわいで秩序の更新が維持されていた近世。
江戸の想像力 物理的なレベルまでP2P型であるような通信方式が大域的に 展開されたとき、近代的な個人に代わって、空っぽの器で
局所化 あって、グローバリゼーションによって判断基準の変化を 余儀なくされる側からすれば、大域の局所化である。
局所化 可能にすることをローカリゼーションと呼ぶことを 踏まえると、近代以降の傾向は局所の大域化と呼ぶのが 妥当である。
思った通り 局所的な再現性の高さと、大域的な再現性の 低さが、「思った通り」からのズレを生み、
思った通り 大域的には複雑な抽象過程も、局所的には 単純な抽象過程で近似し得る。
思った通り 局所での単純化を大域に拡げることによって、 芸術は技術へと堕する。
感応の呪文 こともあれば、それ自体が硬い膜として居座ることで、 「大域的な膜の硬直化」をもたらすこともある。
感応の呪文 局所と大域のいずれにせよ、膜が硬直化してしまえば、 生命は壊死へと向かう他ない。
ショッピングモールから考える それほど変わらないものなのかもしれない。 局所的な統一感が許容され、大域的な 統一感が忌避されるというよりも、
エンターテインメントとアジテーション 局所的・一時的であればエンターテインメントに、 大域的・永続的になるとアジテーションになる。 両者を特徴付けるのは、感情の種類ではなく、
名付けられぬ逸脱 時空の遥か彼方までを一つのモデルmodelで大域的に近似できるというのは、モードmodeの時代たる近代modernの基本前提であったが、単一のモデルの複雑化だけで解決しようとする代わりに、観測点の異なる複数のモデルをもつようになっていくだろうか。そのとき、個人の、民族の、国家の、人類の同一性identityは、どのように維持されるだろうか。
COVID-19所感 資本主義経済は、人口や生産量などの多くのものがほとんど常に単調増加するという前提に支えられており、元々は価値のないものに次々と価値を与えることでその前提を維持してきた。生命体としての人間を生かす観点からすれば、資本主義経済はほとんど常にバブル経済状態であり、資本主義経済としての社会は、発展すれば発展するほど、夥しい数の不要不急のものを抱え込むことになる。ただし、元は不要不急であったものも、それを取り込んでいく間に依存する部分が生じていき、大域的には不要不急でも局所的には不可欠になることが往々にしてある。
ウイルスの意味論 生命は、壊死と瓦解のいずれにも抵抗している。ただし、環境の中に独立して存在する個体として抵抗しているのではなく、環境というエネルギーの流れの中で、淀みが束の間現れるようなものである。生命という淀みは、免疫によってかたちを維持しつつ、ウイルスによってかたちを変化させることで、局所的な死を受け入れながら、大域的な死を免れている。