職業としての学問
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マックス・ウェーバー「職業としての学問」を読んだ。
学問は、それが拠って立つところの前提を基にして、
専門分化によって精緻化し続ける。
それは常に一本道であり、いつか後代の仕事によって
打ち破られることを欲しながら、特定の判断基準に
従って理由付けに邁進する。
そこには一つの局所が形成され、局所の判断基準を
信じるという主知化、合理化を徹底することによって、
すべてが理由で塗り固められた「魔法からの世界解法」
の状態でいることができる。
一方で、いずれの前提がよいかを決める手立ては
学問には存在せず、前提同士、すなわち「公理」
あるいは「神」同士の争いに、学問は口を出さない。
これらの神々を支配し、かれらの争いに決着をつける ものは運命であって、けっして「学問」ではない。
学問が把握しうることは、それぞれの秩序にとって、 あるいはそれぞれの秩序において、神に当たるものは なんであるかということだけである。
マックス・ウェーバー「職業としての学問」p.55
以上のような、ゲーデルの不完全性定理にも通ずる
ウェーバーの学問観には、とても共感できる。
ウェーバーの言う「価値自由」な状態とは、判断基準の
前提=公理=神について明確であるということであり、
その手助けとなるのが学問である。
各人は、価値自由になることで、責任をもって
「善悪の彼岸」に立つことができる。
逆に、価値自由になれず、善悪の此岸に留まっていては、
自らの局所の判断基準を、別の局所を含んだ大域へと
拡張するという過ちを犯す。
学問は、特定の判断基準に収束するという意味では
すこぶる技術的であるが、技術的に突き詰めることに
よって価値自由になることなくしては、芸術的で
あり続けることもできなくなるのである。