感応の呪文
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デイヴィッド・エイブラム「感応の呪文」を読んだ。
周囲から受け取っている情報が同じでも、センサの
特性が異なれば、受け取られ方は違ってくる。
それはつまり、受け取るという過程が、抽象という
不可逆な過程であることの現れだ。
抽象過程は、センサ特性に相当する「膜」あるいは
「肉flesh」を挟んだ情報の流れであり、かたちが
与えられることによって生じる膜の両側での情報量の
差に基づいて、情報量が少ない方を「内」、多い方を
「外」とみなすことで、内外の区別が生まれる。
「情報を受け取るセンサ」と、「受け取られる情報
である周囲」というのも、そうして生まれる区別だ。
更新される秩序としての生命は、抽象過程そのものを
指すものであるはずが、膜が硬くなり、内外の区別が
固定化されるにつれて、自らの内だけが生きている
という錯覚に陥る。
言語、特に表音文字によって、
- ギリシャ語のpsyche
- ヘブライ語のruach
- 日本語の気
という情報の流れが完全に複製可能なものとみなさ
れるようになることで、人間という膜が硬直化し、
内としての意識が閉じ籠もった結果として、人間と
人間以上more-than-humanの乖離が生じたのだと
すれば、これもまた複製技術の問題の一つである。
複製技術とは、「完全な複製」を定義する硬い膜を
えいやで設定する投機的短絡である。
それは、圧倒的大量の情報の流れが次第に定常状態
へと収束する「局所的な膜の硬直化」の回避になる
こともあれば、それ自体が硬い膜として居座ることで、
「大域的な膜の硬直化」をもたらすこともある。
局所と大域のいずれにせよ、膜が硬直化してしまえば、
生命は壊死へと向かう他ない。