遠い娯楽と近い娯楽
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送信される情報量に対して、受信できる情報量が
                    少なくなるものは、遠い娯楽だと言える。
視覚表現も聴覚表現も、規模が大きくなるにつれて
                    遠さを補うようにプロジェクタやマイクなどの情報の
                    増幅器を挟むようになると、間に抽象機関が挟まれる
                    ことで、かえって遠さが強調されるように思う。
                    写真や映画、テレビやYouTubeのような転送器を
                    介したものも、その一種だろう。
                    増幅器の性能が上がり、いろいろな種類の情報を
                    減ずることなく送受信できるようになれば、VRの
                    ように近さは少しずつ回復されるかもしれないが、
                    何かしらの遠さを残したままだと不気味の谷が
                    現れることになる。
近代以降の巨大な集団を一体化させるにあたり、
                    遠い娯楽を広く共有することは効果的であり、
                    近い娯楽で同じ役目を代替することは難しい。
                    ただし、遠い娯楽による一体化が集団の巨大化に
                    有効というだけで、それ以外の一体化が集団を
                    小ぢんまりとさせるというわけではない。
                    鬼ごっこや「どちらにしようかな」の掛け声の
                    ように、大域的な基準がなく、それぞれの地域の
                    バリエーションが豊富だけど、多くの人が知って
                    いるものというのは存在する。
                    それはおそらく、近い娯楽として伝播したものの
                    特徴だろう。
遠い娯楽が優勢な時代において、近い娯楽には
                    何ができるだろうか。
                    それを考えるには、距離減衰が激しく、増幅器
                    によっても伝達が困難な情報をいかに上手く
                    活用するかが重要な気がする。