借りの哲学


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ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」を読んだ。

《贈与》の際に何よりも先立つのは、「贈与される対象が贈与する側の所有物である」という共通認識であり、共有された判断基準が「対象が贈与される側の所有物である」というように変更される過程が《贈与》だと言える。判断基準の共有によって《贈与》に関わる双方を含む集団が形成され、判断基準の変更は、贈与する側では《貸し》、贈与される側では《借り》と呼ばれる。つまり、《借り》の連鎖というのは、人間の行為というよりも、社会、部族、国家、家族といった集団の秩序更新過程としてみる方がよいように思われる。

《贈与》はポジティヴな判断基準の変更例だが、略奪のようなネガティヴな《借り》の場合でも同様に、集団の壊死と瓦解を防ぐような秩序更新過程であるはずだ。ただし、ネガティヴな《借り》の場合には、集団の構成要素である人間の損失を含むことが多いため、集団は壊死も瓦解もせず、消滅してしまうので、結局は集団が維持されない。

かつての《返すことのできない借り》に支配された世界では、判断基準が二度と変化できないように固定化されることで、個々の集団は壊死へと向かっていた。資本主義によって特定の判断基準が大域的に共有されるようになると、《等価交換》によって《返すことのできない借り》を解消することができるようになった。その代わりに、貨幣という大域化された判断基準のみを共有すればよくなることで、新たな《借り》も生じず、局所的な集団も形成されることがなくなった。それは結局のところ、大域的な判断基準が固定化することで壊死へと向かう過程だったと言える。

全体的に楽観的な印象を受けるが、もう一度《借り》に着目し、局所的にも大域的にも壊死を免れるような「《借り》をもとにした社会」を目指すのはよいと思う。返すことのできる、別の人に返してもよい、あるいは返さなくてもよい《借り》が次々に発生し、変化=発散することで固定化を免れる。だけどそれが《借り》であることによって、連鎖が止むことはない。局所的には集団の発散に着目した性悪説っぽさがあるのに、大域的には集団の固定化に着目した性善説っぽさがあるところが、楽観的に映るのかもしれない。
An At a NOA 2017-08-16 “性善説と性悪説

自由というのは、重なり合った抽象過程の間で、判断基準に齟齬がない状態のことを言うのだと思うが、個人という抽象過程が固定化してしまうと《借り》の度に不自由を感じる。だからこそ、個人の確立と《借り》の拒否はマッチしたのだろう。不自由を齟齬のまま捨て置くのではなく、齟齬をなめらかにするようにそれぞれの抽象過程が変化する「不均衡な状態」。

「《借り》をもとにした社会」のシステムができたら、私たちは「不均衡な状態」で暮らすことになる。
ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」p.209

個人、家族、部族、社会、国家、地球といったあらゆる抽象過程が、非平衡系の中の局所平衡として捉えられるようになれば、あるいは「《借り》をもとにした社会」も成立するだろうか。