文系と理系はなぜ分かれたのか
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隠岐さや香「文系と理系はなぜ分かれたのか」を読んだ。
文系と理系については何度か書いた。
An At a NOA 2014-06-12 “理系文系”
An At a NOA 2016-03-06 “理系文系への解釈”
文系と理系の区別の仕方に唯一の決まった方法はないし、
両者を区別した結果自体にはそれほど意味はないと思う。
しかし、文系・理系や人文科学・社会科学・自然科学、
自由学芸七科や百科全書派の「人間知識の体系図」の
ように、人間の知的活動を少数のクラスに分けようと
する傾向自体は、分類思考の現れとしてとても興味深い。
複雑で情報量が多すぎる現実は、単純なモデルへと
分解しなければ人間には理解できない。
むしろ、不可逆な抽象の連鎖による情報の絞り込みこそ、 理解や判断と呼ぶべきものだろう。
An At a NOA 2018-05-07 “系統体系学の世界”
何らかの判断基準に基づいて情報を同一視することで、
元の現実を人間が処理可能なまでに単純なモデルへと
除算する過程が、すなわち理解である。
その過程で情報に生じるバイアスが体系性や意味であり、
バイアスのかかっていない情報はホワイトノイズと
同じように無意味である。
あらゆる理解は同一視による情報の捨象と表裏一体で
あるがために、単一の理解によって元の現実を完全に
表すことには無理がある。
元の現実を少しでも把握しようと、少しずつ判断基準を
変えながら、何度も世界を割り直そうとし続けるのが、
知的活動の本来の在り方に近いのだろう。
その活動は、判断基準を元のままに留めようとする力と、
変えていこうとする力の拮抗によって維持される。
とても生命的なプロセスだ。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス”
現実を理解しようとする知的活動がそうであるのと
同じように、知的活動を理解しようとする知的活動も
また、そのような拮抗状態にあろうとするのだろう。
生まれつきの才能やジェンダーに限らず、「適性」
という発想が、既にバランスの崩壊の前兆である。
バランスが崩れること自体は、新たな平衡点への
移動をもたらしてくれるが、特定の「適性」に固執
し過ぎれば、「最適な状態」という一つの静的平衡
へと壊死してしまう。
様々な「適」が次々と現れ、止めどなくバランスが
崩れ続けることによってのみ、動的平衡としての
拮抗状態は維持されるはずだ。