無意味に耐える
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伊藤計劃の「ハーモニー」の文庫版に付いている佐々木敦による
解説には、伊藤計劃へのインタビューが抜粋されている。
その中で、伊藤計劃は
無意味であることに耐えられないんですよ人間は。
絶対何かを見ちゃうじゃないですか。ランダムなパターンや 砂嵐にも何かが見える、みたいな。科学が差し出すものに 意味がなければないほど、そこで耐える力をみんなで 勉強すべきだと(笑)。
伊藤計劃「ハーモニー」p.375
と述べている。
意識というものが情報に意味を与えることで成立しているのだとすれば、
意識は正に自己の存続のために意味を与え続けることをやめられない。
五感から入力される情報にも、絶えず意味付けがなされ、それは視覚に
おいて顕著だ。日常で接する光景は、それを「見た」ときには常に何らかの
意味が付随してしまっている。
聴覚や味覚、触覚や嗅覚では、多くの人間は視覚ほどに訓練されていない
ために、意味抜きの情報として受け取る機会も多いと感じられる。
理由付けはとても遠回りな意味付けである。遠回りでもそれをしてしまうのは、
「無意味であることに耐えられない」ために、多少遠回りでもあらゆることに
意味を付けておこうとする、ある種の定めだ。
それは、判断不能な状況から如何に逃れるかという、生命としての本能に
起因するのかもしれない。
意識をなくすには2通りの解がある。
1つは、試行回数を増やすことで、理由付けによらない意味付けをすることだ。
これは短絡であり、痴呆、習慣、常識、宗教、本能等が該当すると考えられる。
もう1つは、判断不能を受け入れることだ。
ありとあらゆることの判断ができないとしても、生命を維持するだけであれば、
1つ目の範囲の判断ができるだけで、かなりの程度事足りる。
しかし、そこに留まらずに判断不能な領域を狭めようと、解空間を拡げようとして
きたのが人間であり、つまりは意識である。
ハーモニーのラストは、もう解空間を拡げることをやめた世界だ。
解空間を有限とみなすことで初めて「合理的」の意味が定まる。
訓練データの外に出られない人工知能もまた、有限な解空間の中にいるのだろうか。
そこから外に出るためには、何をしたらよいのだろうか。
そこから外に出る必要はあるのだろうか。
人間の意識は果たして訓練データの内外どちらにいるのだろうか。