共にあることの哲学と現実
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岩野卓司編「共にあることの哲学と現実」を読んだ。
通信可能性と応答可能性をもって、壊死と瓦解の間で
                    判断基準のすり合わせの過程を終わらせずにいるのが
                    共にあることなのだとしたら、どのような理論であれ、
                    それを固定化されたものとして打ち出すこと自体が
                    共にあることから遠ざかる。
                    判断基準をすり合わせる過程がアンチ・オイディプス
                    なのであって、すり合わされた判断基準を永続化する
                    ことはオイディプスであり、すり合わせの過程を終息
                    させてしまう。
                    序で述べられている、
研究をする者が思想家の殺害者であるという事実 岩野卓司「序 共同体を実践するために」
岩野卓司編「共にあることの哲学と現実」p.10
というのは、そういうことなのだろうと思った。
                    この考えもまた一種の「殺害」であるに違いないが、
                    文学作品が形象化の矛盾を孕んだ「運動」であるのと同じ
                    ように、更新される秩序としての生は、局所的な死を繰り
                    返すことで、大局的な死に至らずにいるのだと思われる。
家族における「父」や「母」という存在もまた、認知を
                    通した情報の割り算によって生じる。
                    技術の発達により三人の「母」が存在し得るようになった
                    のは、母という商と個人という商の分割が一致する必要が
                    なくなってきたということだろう。
                    「分人」のように、一人の個人が複数の存在から成り立ち
                    得るように、一つの存在が複数の個人から成り立つという
                    こともあり得るということであり、それは、in-dividualの
                    境界がホモ・サピエンスの物理的身体の境界と一致しなく
                    なったことの現れである。
それぞれのデータベースの1アカウントとして、個人はもはや個人としてでは ない状態であらゆるところに存在できている。
逆に、2以上の個人から採取したデータが1つのかたまりとして振る舞うという こともあるだろう。
An At a NOA 2015-03-09 “ポストモダンの思想的根拠”
各個人から「この自動運転車に乗った」という 性質だけを抜き出して再集合させることで立ち上げられた、 新しい個を責任主体とみなす An At a NOA 2017-06-09 “AIの責任”
子による親の認識に先立つ、親による子の認知が、信じる
                    という理由なき跳躍となり、まさにその根拠のなさによって
                    家族の絆というプロセスが駆動するというのは、「貨幣論」
                    で描かれた貨幣の成立過程と似ている。
                    理由付けを積み重ねることで、壊死しないことはできるかも
                    しれないが、瓦解しないためには、何かしらの理由のなさを
                    導入する必要がある。
                    その過程を認識や理解によって把握すること自体もまた、
                    オイディプス的な単一の判断基準によってはできず、
                    アンチ・オイディプスな過程として駆動する必要があるのだろう。