死刑 その哲学的考察


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萱野稔人「死刑 その哲学的考察」を読んだ。

遺族が死刑を望む感情も、人を殺してはいけないという 道徳意識も、物理的身体による意味付けのレベルの本能 的な判断であり、心理的身体による理由付けに基づく理性 的な判断だけによってその是非を語れるものではない。
個別案件についての定言命法的な判断基準は、「語り」と 「示し」の両方による直接のコミュニケーションを通じて しか形成できないように思う。

一方で、直接のコミュニケーションを続けるには人間の 集団はあまりに大きくなりすぎている。
その状況で何とか間接的なコミュニケーションだけで 判断基準の共有を行おうとしていることの現れが、 「何が道徳なのか」「死刑は是か非か」ということを 理解しようとするプロセスなのだと思う。

自殺や安楽死を含む殺害が禁止されることについて、理由付け によって「理解」することは難しいが、人間が理由を気にする ことで特徴付けられるとすれば、理解しようとすること自体が、 この種のフィードバック機構が作動していることの現れの一部 なのだと思われる。
An At a NOA 2017-11-06 “殺してはいけない理由

理由付けによる理性的な判断は、意味付けによる本能的な 判断を遅延させる。
理由付けによって遅延された処理は、どこかで評価される 必要があるが、それを行うのが公権力の役目となる。
公権力は、直接コミュニケーションがとれない程に肥大化した 集団において、確定した判断基準を共有するための仕組みである。
そして、本来間接的なコミュニケーションだけでは確定できない 判断基準を確定させることは、常に冤罪となる可能性を伴う。
判断を遅延させた段階で、すなわち理性を介した段階で、 冤罪の可能性は既に発生している。

現行犯をその場で殺す代わりに裁判を経て死刑にすることや、 死刑にする代わりに終身刑にすることは、いずれも理由付け による処理の遅延化であり、遅延評価をいつまで待てるかを 決めるのが処罰感情である。
遅延評価の先延ばしが少しずつ長期化していっているのは、 人間が長期的な視点で生きるようになったり、全体として 死ににくくなったことの現れだろうか。

「死刑は是か非か」という議論は、結論を急がずに続けていく ことによって意味をもつのではないかと思うが、それもまた、 理由付けによる判断の遅延に次ぐ遅延である。

人類は限りなく延ばされた一瞬の中で、 それに対する答えを探り始めている。
An At a NOA 2015-10-23 “彼女は一人で歩くのか?