コミュニケーション学講義


[tag: book]

ダニエル・ブーニュー「コミュニケーション学講義」を読んだ。

入力されるデータにはかたちがなく、ある判断基準に 基づいて解釈されることでかたちをもつようになる。
この抽象過程が「意味」や「情報」であり、実体として よりも、プロセスとして捉えるのがよいように思う。

データは、抽象過程の判断基準に身を委ねるしかないが、 抽象過程を連ねて判断基準をすり合わせることで、何らかの 「意味」や「情報」を共有できるようになる。
その過程がすなわちコミュニケーションである。

送り手が為すのは「提案(proposer)」することであり、 受け手はそれを「自由に扱い(disposer)」、その提案の 働きを理解するフレームを与え、時には野蛮な解釈を 加えたりするのです。
ダニエル・ブーニュー「コミュニケーション学講義」p.68
私たちは自ら発したり受け取ったりする言葉を、スポンジや ゴムを扱うように引っ張って変形させたり、自らの本質を そこに注ぎ込んだり、自らの生命を与えたりします。
それが意味をなすということです。
同p.92
それ自体で価値ある情報あるいはノイズなるものは存在 せず、その価値はつねに、それぞれの人の固有世界が いかに選択し受容するか、あるいは情報に対して身を 閉ざすかに左右されるのです。
同p.133

パースの記号論で言えば、判断基準は解釈項であり、 人間という抽象過程のうち、物理的身体による意味付けが 指標に、心理的身体による理由付けが象徴になる。
人間は意味付けや理由付けをしないではいられず、発話行為、 一次過程である意味付けは、発話内容、二次過程である理由 付けに対して常に先行する。

記号の帝国が自然的世界を二重化する―つまり文化一般を 含む記号圏が、自然、動物、植物を含む生命圏を「押さえ、 抱え込む(contenir)」わけです。
同p.47
何も言わずにいられるとしても、示さずにはいられないのです。
同p.82
文化は空虚を恐れるものであり、人間の精神は、説明や 満足させてくれる教えを欠いては生きていけません。
同p.116

共有された「意味」や「情報」のうち、固定化して前景化 しなくなった透明な部分がメディア、解釈項の違いによる ズレの余地のある部分がメッセージとして機能する。
アナログとデジタルの話で言えば、メディアはアナログ であり、メッセージはデジタルである。
メディアとメッセージの区別は、コミュニケーションを通じて 常に変化するはずだ。
デジタルメディアは人間にとってはメッセージであるが、 機械にとってはアナログであるし、未来の人間にとっても アナログになる可能性はあるだろう。

一つの判断基準に固定化することで抽象過程の透明度は 増し、かつてのデジタルはいつかアナログとなる。
An At a NOA 2017-12-23 “アナログとデジタル

メディオロジーは圏論のように広く、それだけに面白い。