偶然か必然か
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シミュレーションは決定論的だが、そのシミュレーションの結果と
一致することをもって、実在が決定論に従うとすることには飛躍が
あるということを書いた。
An At a NOA 2017-01-18 “理由欲”
実在は、偶然でも必然でもない在り方をしているはずだ。
「情報が存在している」という言及すら不正確さを含んでしまうような 在り方で、端的に情報が在るようなイメージだ。
An At a NOA 2016-08-27 “ぼくらは都市を愛していた”
と書いたように、情報が実在するという言い方すら既に誤解を
含むが、その在り方は偶然でも偶発的でも決定論的でも必然的
でもないはずだ。
偶然と必然は、抽象する段階においてはじめて発生する性質である。
大人が必然だと感じていることも、この世界を抽象し始めたばかりの
赤ちゃんにとっては偶然と感じられることも多いだろう。
人間以外の動物では、センサ特性が異なることで、人間にとって
偶然のことが必然だったり、その逆だったりすることもあるだろう。
むしろ、赤ちゃんや他の動物には、偶然ということの意味すらわからない
かもしれず、偶然と必然の区別は意味付けのレベルではわずかで、ほとんどが
理由付けによって発生するのかもしれない。
何かをある理由でもってシミュレーションし、そのシミュレーションとの
一致をもって実在を「理解」したことにする。
そのシミュレーションに用いるモデル化が収束しているのであれば、
理解された実在は必然だと感じられるし、発散あるいは振動している
のであれば、偶然だと感じられるだろう。
ある意味では、この種の「理解」可能か不可能かの判別不可能性をもって、
実在を偶発的と形容することに不具合はないとも言えるが、
「偶発的に在る」という理由で塗り固めるよりもむしろ、
野矢茂樹のように「世界はなお圧倒的に無意味である」としたり、
吉川浩満のように「理不尽である」としたりすることで、
理由の連鎖で埋め尽くせない対象だと言っておくのが素直なように思われる。