心という難問
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野矢茂樹の「心という難問」を読んだ。
野矢先生と言えば、学部1年のときに「科学哲学」の講義を聞いた。
人気講義の一つで、大教室に立ち見が出るほどだったが、
高校の時とは全く違う内容、進め方に嬉しくなったものだった。
素朴実在論へ回帰し、ノイズとも言える情報に秩序付けを行うことで 心がつくられていくというのはメイヤスーの「有限性の後で」に通ずる ところも感じられ、
で考えていた、「意識とは、理由付けを備えた評価機関である」という
ことにも通ずる。
第I部では素朴実在論、二元論、一元論等の問題点を順を追って
簡潔に説明しており、「科学哲学」の講義を思い出させるような
雰囲気だった。
第II部で、素朴実在論を基にして、眺望論と相貌論と呼ばれる持論を展開する。
世界は無視点的にも有視点的にも把握される。
野矢茂樹「心という難問」p.72
というテーゼを基本とし、空間、身体、意味を変数として有視点的把握を
捉えることで、自他の違いや時間的な認識の変化(錯視や幻覚を含む)を
説明しながら素朴実在論を守っている。
6-7節に出てくる知覚の形成に関する例がわかりやすい。
音だけの世界に人間が誕生した後、生き延びるために音の継起に
秩序を見出そうとする。この秩序は対象、空間、身体、意味によって
支えられ(あるいは支えられると想定され)、知覚のあり方が決まっていく。
対象・空間・身体という枠組はそもそも経験を秩序づけるために 要請される。そして私たちはそこに、自分たちの生活や実践に応じた 意味を付与していくのである。
同p.108
というあたりは、「科学と仮説」でポアンカレが述べたような、科学の
あり方にも通ずるところがある。
8-5節では色についての議論の中で「定義よりも弱い意味上の関係」という
ものが出てくる。「絶対にそうだとはかぎらないが、そう考えて当然」という
評価に相当し、それは認識よりも行動に価値をおくことに関係しているとしている。
私たちは状況の認知をもとに行動しなければならない。そのためには 判断の正確さだけでなく、スピードも必要とされる。
(中略)誤りうることを鵜呑みにするのは不合理であると考えられてしまう かもしれないが、そうではない。誤りえない判断を求めて一歩も前に 進めなくなることこそ、不合理だろう。
同p.192
生き延びるために世界に秩序付けを施すのであって、秩序の「正しさ」を
追求することはときに本末転倒になってしまう。
相貌論では、知覚が時間性、可能性と関連付けられることを「物語の内に
位置づけられる」と表現している。
物語に応じて異なった意味づけを与えられる知覚のこの側面を「相貌」と呼ぶ。
同p.207
ディープラーニングにおいても、訓練データによって物語が用意され、
人工知能の知覚がその物語の内に位置付けられていく。
画像から特定の概念に対応する要素を抽出するという例が多いが、原理的には
全ての知覚において同様のことができるし、少なくとも人間はやっている。
(知人から聞いた話だが、車好きの父親が子どもにエンジン音を聞かせていたら、
エンジン音からメーカ名が判断できるようになった、ということもある。)
しかし、9-2節で挙げられたクリーニャーの例にあるように、
分類が知覚に反映されるためには、さらにその分類のもとに典型的な 物語が開かれる必要がある。
(中略)概念はそこに典型的な物語を開き、それによって対象は相貌を 獲得するのである。
同p.210
現在のディープラーニングでは、この「物語を開く」部分がまだ弱い気がする。
つまり、概念をもってはいても、対象が相貌を獲得しきれていない段階だと思う。
視覚という特定の知覚データしか蓄積が多くないのと、異なる知覚間、あるいは
知覚と言語表現との間のつながりが弱い。そして何より、人工知能が秩序付けを
必要としているように見えないというのが大きい気がする。
私はその物語を「生きて」いなければならない。たんなる絵空事には相貌を 生み出す力はない。相貌は私自身がどのように未来に向かおうとしているかに かかっている。
(中略)私がその物語を生きていない以上、知覚に反映されることはない。
同p.220
人工知能の教育は絵空事を超えられるだろうか。それにより、人工知能は物語を
生きることができるだろうか。
脳科学に対する議論において、脳状態が知覚と一対一に対応するわけではないと
示す中で、スワンプ脳の例が取り上げられる。
カンブリア紀に突如あらわれた脳に、大仏を見るという脳状態を再現したとき、
この脳は大仏を見ているだろうか。
何かは見るだろうが、それは大仏としての意味をもつことはおそらくない。
人工知能はスワンプ脳であることを抜け出せるだろうか。
動物やロボットに知覚的感受性があるかという問に対し、それがもっともよい説明か
どうかに関わるという答えは、万人を満足させるものではないかもしれないが、
個人的にはそれで十分だと思う。
ポアンカレも言うように、科学もまた一つのモデル化に過ぎず、実在そのものがどうあれ、
次の行動への指針を与えてくれる十分な説明であることが必要十分となる。
そしてそれが「正しい」とされるかどうかはコンセンサス次第だ。
この本を通して語られる眺望論と相貌論自体もまた、もっともよい説明として
次の行動への指針となり得るという点も、科学的な側面を感じさせる。
野矢先生はロボットもいつか物語を生きられるようになることに対して楽観的だ。
それにはロボットが人間の生活により入り込んでくる必要があると思う。
ここには、人間の側の受け入れ体制が整うかどうかがかかっているが、そこでもまた、
人間が変化についていくという構図が再現されると思われるので、まずは率先して
変化させるものが出てくることになる。
それはすでにGoogleやApple等によって始まっているとも言えるが。
他我問題への解答として、物語の共有の不完全性が提起される。
複数の人が、生まれてから現在までのすべての時間にわたって物語を共有し、 かつ、あらゆる細部をも共有することなどありえない。
これが「他者性」の正体である。
同p.334
他者は他者であることによって不可避的に私と物語を部分的に共有しており、
つねに完全な他者では有り得ず、不完全な他者となる。
巻末の補足において、この物語の同一性のありえなさは論理的な不可能性であるとの
見通しが示されている。
物語が全く同一であれば同一人物とされるという点には同意する。
もし、人間が現在の身体から解放されることを望むのであれば、生まれた瞬間から
あらゆる知覚を記録し、物語をリアルタイムで複製することで、同一人物を交換可能な
身体の上に再現することも技術的には可能になると思う。
そんな複製技術時代に生きるときに、心の捉え方は全く違うものになるだろう。
ただし、結びの中で述べられているように、全てのノイズに秩序が与えられているわけではなく、
どの程度ノイズが残っているのかもわからない。
秩序から漏れたノイズの影響如何ではコピーは完全なものにはならず、それは精度の
無限遠において本物に漸近する何かにしかなれない。
そういった意味での論理的不可能性を野矢先生は感じているのかもしれない。
世界はなお圧倒的に無意味である。
同p.340