意味付けと理由付け


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いずれもコンセンサスによるものという点では同様だが、 「意味付け」と「理由付け」は違った表現として用いている。

「意味付け」は、端的に言って特徴抽出である。
場合によっては、言語を核にすることで、より具体的な概念として 抽象することもある。
特徴抽出の過程で大量のデータセットを必要とするが、 ある程度収束し、追加情報による修正幅が微小になれば、 高速な判断が可能になる。

「理由付け」は、意味付けされたもの同士の対応付けのうち、 データ数が十分でないものである。
原因と結果という前後関係に限らず、共起する関係も含む点では、 因果律と同値というわけではない。時間という順序構造を 認識するだけのバッファが得られて初めて因果律と結びつく。
「理由付け」はデータ数の不足により訓練が十分ではないため、 「意味付け」に比べると低速な判断しかできないが、判断不能に 陥ることに比べると有利である。

「意味付け」と「理由付け」はどちらが高度ということもない。
個々の形成にかかるコストは前者の方が圧倒的に大きいが、 一旦できてしまえば性能は優秀だ。
そのあたり、ディープラーニングと似ている。
後者は、形成するためにプロセッサに要求されるコストが大きく、 判断性能では劣るものの、カバー領域の広さが魅力的だ。

意識は後者がなければ生まれない。
というよりも、「理由付け」を行う過程自体を意識と呼んでもよいくらいだ。

「理由付け」は「データ数が十分でない」という点が解消されていくにつれ、 「意味付け」に漸近していく。
その結果が痴呆であり、伝統であり、またある種の自然である。