文化進化論


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アレックス・メスーディ「文化進化論」を読んだ。

全体的に興味深い話が多いのだが、どことなく 誇張気味に感じるのは気のせいだろうか。
見られる対象の性質だけに焦点を当てて、 そこにある正しい構造が見い出せるはずだという 前提の下に議論を進めるのは、よく言えば楽観的、 悪く言えば少し脳天気なようにも見えてしまう。

生物学的進化と同じように、文化進化という概念を 中心に社会科学の諸領域が統合できるという発想は とてもよいと思うし、その方向に研究が進んでいく のも楽しみである。
しかし、それは

文化とは、模倣、教育、言語、といった社会的な 伝達機構を介して他者から習得する情報である アレックス・メスーディ「文化進化論」p.13

として定義される文化が、生物と同じように進化論によって 整理できる可能性を示していると同時に、進化論という人間の 抽象の傾向を示しているだけなのかもしれない。
三中信宏やエリオット・ソーバーはこのことに自覚的である ように思うが、アレックス・メスーディはどうだろうか。
人間の用いる抽象過程自体もまた文化の一部であるから、 それに対する配慮なしに文化進化という話をすることは できないように思う。

文化進化というリサーチ・プログラムで整理する際に 最も気にかかるのは、生物学的進化と文化進化における 「個体」は同一とできるのか、である。
生物学的進化は物理的身体の発展に関わっており、 文化進化は心理的身体の発展に関わっている。
生物学的進化が肉体を境界として個体を設定するのは 自然だと思うが、文化進化が同様に肉体を個体の基準に 採用する根拠は何なのだろうか。
「模倣、教育、言語、といった社会的な伝達機構」が 心理的身体のセックスと呼べるのであれば、こういった コミュニケーションが生じるとともに目まぐるしく世代 交代する過程として文化進化を描き出すことも可能であり、 それによって本書で指摘されているような生物学的進化と 文化進化の違いのいくつかは解消されるようにも思われる。

第3章「文化の小進化」で、模倣の誤りが遺伝子の突然変異 と比較されている。
複製技術の進化によって、模倣の誤りの程度は少しずつ 減少傾向にあると予想されるが、完全な複製技術は文化進化の 遅延をもたらすだろうか。
複製技術の発展は、ベンヤミンが指摘したアウラの問題とは 別の問題もはらんでいるのかもしれない。

第5章「文化の大進化Ⅱ」において、文化という複雑な対象を 単純なモデルでは理解できないという批判への反論は、

「単純な思考装置は、物事を単純に考えようとは思わない、 ということですね」 森博嗣「私たちは生きているのか?」p.194

という指摘を彷彿させる。
人間の複雑さと抽象能力の高さは表裏一体であり、文化が 複雑だからこそ文化進化論のような抽象過程に行き着く というのはとても面白い。

第6章の実験はどれも興味深いが、特に言語学の実験が好きだ。
人から人への伝達によって言語が構造を獲得するプロセスは、 第7章で示される、コミュニケーションによって科学が客観性を 獲得するプロセスに通ずるところがある。
個体内での通信では構造が発生せず、個体間での通信によって のみ構造が発生するとしたら、どこに違いがあるのだろうか。
通信が不完全であることに鍵があるだろうか。

第9章で取り上げられる、人間と人間以外の動物の文化進化の 違いについて、人間が模倣に対する衝動を有するのに対し、 人間以外の動物が固執する傾向にあると指摘されているのは、 投機的短絡の話に相当する。
犯罪や創造という投機的短絡による発散の傾向が強いことが 人間を人間たらしめている。
その強い投機的短絡がある中でコミュニケーションをとるために、 充足理由律が発生したということはあり得るだろうか。

人間以外の動物だけでなく植物も含めてよいはずなのだが、 植物の文化進化という話は出てこない。
さすがに胡散臭く聞こえるのは確かだが、それは何故だろうか。
固定化と発散のバランスにおいて、人間の観察する時間スケールで 固定化によっている場合は生物学的進化、発散によっている 場合は文化進化として把握されるために、植物には生物学的進化 しか想定されないのだろうか。
そうだとすれば、やはり進化論という抽象過程が人間の抽象に関する 特性を反映したものだと言えるような気がしてしまう。

抽象によって秩序が形成されること自体が生命的であるから、 人間を特徴づける抽象過程の特性にはとても興味がある。
文化進化論自体も面白いが、それにも増して面白いのは、 文化進化論自体が文化進化論の対象になることであるのは確かだ。