抽象の力
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岡崎乾二郎「抽象の力」を読んだ。
dataがinformationになる過程。何らかの判断基準に基づく同一視によって、無数のdataが少数のinformationへと圧縮され、判断基準に応じた形式を帯びる。把握、認識、理解を包含するその除算の過程を、「抽象」として取り出そうとする過程もまた、抽象である。
そのような絶え間ない抽象の重なり合いについての自覚が、19世紀末から20世紀にかけて、科学、美術、文学などの様々な分野において、互いに呼応するかのように生じたのだろう。
ある状況を高圧縮率で抽象し、単線的なチェインや対称性を多く有する形態のように、自由度の小さい単純なモデルで元の状況を置き換えれば、把握することは容易になる反面、表現できることは限られる。単純なモデルへの抽象は持続する傾向を有し、元の状況は静的なものへと固定化されてしまう。「善」とは、この傾向のことを言うものである。
逆に、ほとんど圧縮しないでいては、それを把握したことにならない。人間の処理能力は、世界を圧縮せずに把握できるほど高くない。仮に、世界を圧縮せずに把握できる神のような把握能力があったら、社会、国家、主体、人間、といったかたちで集合することはなく、それは単なる状況そのものとして存続するだけだろう。
いくつものチェインを描きながら、それらが絡み合うようにしてネットワークをなしている様をあぶり出すことで、元の状況を動的なものとして抽象する。そのアナーキーな抽象過程は、単一の静的モデルを用いた抽象過程にはない不確定性を有し、不確定性は自由意志として認識される。抽象美術が目指したであろうこの方向性を、本書もまた共有しており、この本自体が一つの抽象美術となっている。
あらゆる抽象は、元の状況のすべてを表すことができないという犠牲を払うことで、人間が把握できるものとなる。そのことを忘れれば、単純なモデルと複雑な状況の齟齬がもたらすカタストロフ、すなわち天災を招くだけだ。単一の判断基準に基づく抽象へと固定化することなく、発散しない程度に少しずつ判断基準を変えながら、壊死と瓦解の間で抽象し続ける。その小さな死の積み重ねがなすエネルギー変換の過程だけが、終わりなく存続することができる。