フェティッシュとは何か
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ウィリアム・ピーツ「フェティッシュとは何か」
を読んだ。
物理的身体というセンサを介して「自然に」構築
される判断基準によって認識されるものを「物質」
と呼ぶとすると、それとは別の「不自然な」判断
基準によって認識されるものは、「観念」と呼ぶ
ことができる。
「認識」というのは、情報量を削る過程であり、
削り方には部分対象的な方法と商対象的な方法が
あるように思う。
物理的身体が抽象する情報について言えば、
物質が部分対象であり、観念が商対象だ。
一意的に定まっていく「自然」な判断基準に対して、
余計である「不自然な」判断基準には無数の候補が
存在し、現れては消え、現れては消えを繰り返す。
その中のあるものが偶々維持されるようになると、
物理的身体にとっては「不自然な」判断基準に支え
られた抽象過程、言うなれば心理的身体、つまりは
意識が生じ、世界は物質的かつ観念的に認識される
ようになる。
この物質と観念の恣意的な対応が価値体系であり、
シニフィアンとシニフィエの恣意性にも通ずる。
各々の意識にとっては、自らの依拠する価値体系は
あまりに「自然な」ものであり、真理に映るが、
価値体系はいずれも本質的に恣意性を帯びており、
同じような物理的身体でありながら、全く異なる
価値体系に依拠するものは数多に存在し得る。
同じような物理的身体で同じ物質をみているはず
なのに、全く異なる観念をみている存在に出会うと、
ある種の不気味さを覚える。
このとき、自らのものとは異なるという意味で
「正しくない」価値体系に与えられた名前が、
フェティッシュという概念であるように思う。
フェティッシュと名指すとき、己もまた当の相手
からフェティッシュと名指され得ることに自覚的
であることは、なんと困難であることか。
君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた 君を覗き込む。
フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」p.138
このとき、君にとっての深淵は深淵であることを
自覚しておらず、むしろ君のことをこそ深淵と
みなしているのだ。