民主主義の内なる敵


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ツヴェタン・トドロフ「民主主義の内なる敵」を読んだ。

民主主義とはまず第一に、語源的な意味では、権力が 人民に属する体制である。
ツヴェタン・トドロフ「民主主義の内なる敵」p.12
この最初の根本原理に第二の原理が付け加えられるときに、 近代民主主義は自由主義的であるといわれる。
個人の自由の原理である。
同p.13
いかなる民主主義も社会秩序の改善―集団的意志の努力の おかげによる改善―の可能性という考えを前提としている と言うことができる。
同p.14

人民、自由、進歩の三語に要約される民主主義の構成要素が互いに 切り離され、行き過ぎるdémesureことによる危険。

ポピュリズム、ウルトラ自由主義、メシア信仰、つまり民主主義の 内なる敵である。
同p.15

それは、自文化、わたしという個人、われわれにとっての善といった、 特定の判断基準への収束、同じでないものの忌避への陥りであり、 多元的で複雑であることによって維持される民主主義を毀損する。

民主主義の第一の敵対者は、多元的なものを唯一のものに還元し、 かくして行き過ぎへと道を開く単純化である。
同p.16
民主主義体制はただ一つの性格に還元されるのではなく、いくつもの 切り離された原則の連接と均衡を要求する。
同p.216

整合性を求めて単純化へと向かおうとするのは、充足理由律への 過度な信仰の故だろうか。

「自分の行動を自由に決める権利を要求する」衝動がつねに生まれつつ、

この衝動がつねに制限され、今度はこの制限が尊重されなければならない 同p.38

というのは、飛躍しては理由によって繋ぎとめる往還のプロセス であり、その過程が人間を人間たらしめる社交性となる。
制限とは禁止、規範、判断基準であり、権威を生み出すが、与える 制限に責任をもち、飛躍によって固定化が回避できる限りにおいて、 権威もまた社交性に不可欠な要因となる。

禁止のない、規範のない、したがってまた従属関係のない社会は 存在しない 同p.200

自由とは、いくつもの判断基準が相互に調整し合うことで、一時的に でも齟齬を解消できる状態のことを言うのだと思われる。

コンテクストはつねに異なっていることを考慮して、それら普遍的な 価値や道徳とのかかわりを特定の状況に限定すべきだということである。
同p.92

社交という通信プロセスにおける受信者を置き去りにし、調整すること なしに特定の判断基準を固定化してそこに収束することは、主観的に 見れば自由に見えるかもしれないが、社交性を失っている時点で、既に 人間ではなくなっていると言える。

私たちの野蛮さ、あるいは文明化の度合いは、私たちと異なった 他者をいかに認識し受け入れるかによって測られるからである。
同p.209

個人主義とグローバリゼーションという、無限の再分割と一様化に よって、社交性による秩序の更新過程が停止する。
その文化喪失のプロセスを抜け出し、多元的な民主主義に至る、 すなわち人間になることが、人間にはできるだろうか。

「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「」p.76