政治的スペクトル
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この話。逆に言えば、「保守」という概念も、もちろん「右翼/右派」ではない。保守主義は元々、既存の制度や慣習等を重視し、それを人間の理性によりむやみに変える事を忌避する考え(例えば、バークやハイエク)。復古主義や民族純化主義はこのような立場に立つ「保守主義」から遠い考え方。 https://t.co/Bi59K0MvBr
— Kan Kimura (on DL) (@kankimura) 2017年10月2日
「右と左」、「保守と革新」、「自由主義と全体主義」、
「ノーラン・チャート」のように、政治的スペクトルを
一次元や二次元に落とし込む試みは多い。
「保守と革新」というのはつまり、保守が固定化、革新が 発散に対応するのだと思うが、固定化と発散は
「今を維持しようとする力」と「変えようとする力」
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス”
なので、維持する対象となる現状が変化するのに合わせて、
態度も変化するものであるはずだ。
「自由主義と全体主義」というのは、人間と国家という
大小の抽象過程のうち、いずれを優先するかということに
対応するのだと思うが、これは軸の設定がまずいと思う。
一人の人間であると同時に、家族の一員でもあり、国家の
一員でもあり、地球の一員でもあり、というように、多数の
抽象過程の重ね合わせとして生きる状態の対極として、
いずれか一つの抽象過程のみを重視する生き方がある、
という「多態性と単態性」のような軸の方がわかりやすい。
自由主義も全体主義も行き過ぎれば単態性に陥り、結局は
その単態性が集団間の垣根を超えられないほど高く、強固な
ものにしているのだと思う。
「多態性を維持しながら、固定化と発散を繰り返す。」
これを標榜する集団はスペクトル上のどこに位置するのだろうか。
いずれにせよ、あまりに低次元に落とし込んだ議論は、
圧縮し過ぎたJPEG画像のようにわけがわからず、
元の姿を想像するのに非常に高いリテラシーを要する。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学”
2017-10-13追記
「右と左」の違いは、差異に対する態度だろうか。
右は差異があることを許容し、左は差異がないことを望む。
差異が絶対化した世界も、差異が消滅した世界も、ほとんど
同じくらい望ましくないように思う。