ゲーデル
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現代思想2017年6月臨時増刊「ゲーデル」を読んだ。
森毅や竹内外史のエッセイが載っていて不思議だった
のだが、2007年2月臨時増刊号を再刊行したものらしい。
遠山啓が「現代数学入門」で書いていたように、数学は
構造の科学であり、抽象そのものの在り方を扱う。
幾何学における平行線公準の真偽が、ユークリッド幾何学と
非ユークリッド幾何学の違いを生み出し、ニュートン的な
世界観と相対論的な世界観に対応していたように、
選択公理や連続体仮説、排中律の真偽もまた、異なる
抽象の仕方に対応するというだけであるとも言える。
森毅のエッセイで、
外史の「名著」だが、直観主義(命名としては構成主義の ほうがよいと思う)の論理を心の論理、ノイマン環の 量子論理を物の論理、古典的なブール論理を神の論理と しているのに感心した。
森毅「ゲーデル、つかず離れず」
現代思想2017年6月臨時増刊「ゲーデル」p.57
と書いてあったのは、このような公理の設定と世界観の
対応を表している。
これらの真偽に対して中立を保ち、真である場合と偽である
場合について思考することもできるが、意識や無意識を実装
した人間として、自らが身を置く抽象過程がそれらの公理の
真偽いずれの場合に相当するのかを決定することにこだわる
という姿勢もわからなくもない。
ゲーデルが連続体仮説の決定不能性に満足しなかったのは、
そこにこだわったためだと思われる。
公理の真性は予め決まっているのではなく、決めるべきものである。
それを決めるのは、人間にとっては物理的身体のセンサ特性かも
しれないし、心理的身体の特性かもしれない。
人間だけに話を限るのであれば、物理的身体のセンサ特性に対して
真である公理は、単に真だと形容してもよいのかもしれない。
しかし、真偽は抽象過程を経ることで決まるものであり、もし
絶対的に真にみえるものがあるとしたら、それは同じ抽象過程を
経た情報を、その抽象過程を超えた後だけ眺めるためである。
無相の情報それ自体には、真理という概念すら存在しないはずだ。