ニュートラルなマスメディア


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結城浩の言いたいことはすごくよくわかるし、 自分もそういうマスメディアがあって欲しいと思う。
だけど、何がニュートラルで何がファクトかとか、 どこから見てバランスがよいと言うのかを決める こと自体が、既にニュートラルでないのが難しい。

マスメディアは、迅速に情報を伝えるために、元の 情報よりも情報量を絞って発信する必要がある。
その情報量を絞る過程が、編集であり、抽象である。

高次元空間である元の情報を部分空間として近似して 伝達するという意味では、マスメディアを介して情報を 得ることは、部分空間法の一種だと言える。
部分空間を張るための基底がマスメディアの編集方針に 相当し、できるだけ異なる基底で表現された複数の部分 空間を眺めることで、元の高次元空間を想像しやすくなる。
しかし、少ない次元の部分空間しか張れないマスメディアが 多く、さらにそれぞれの基底が同じ方向を向いていると、 部分空間は一向に拡がらない。
一見異なる方向を向いている基底も、真逆を向いている のであれば同じことだ。
その状況で高いリテラシーを保つのは困難である。

リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学
リテラシーが高いというのは、抽象を再構成することで 想像された具象と元の具象が、情報として高い一致度を 有するということであり、リテラシーが低いというのは、 全然別の情報をもつ具象を想像してしまうことである。
An At a NOA 2017-04-29 “リテラシー

もしある特定の方法でしか編集しないのであれば、 それが一見どんなにニュートラルに見えたとしても、 「これがニュートラルな編集である」という正義が 埋め込まれるだけである。
ある程度広い部分空間への写像を提供するような マスメディアがあったとしても、そればかりに 接するというのは、べき乗法のように特定の見方が 強調される結果に収束するように思う。
その状況を偏向と呼ばないのであれば、気付かぬ うちにユートピア=ディストピアを受け容れている だけである。
そのことを悪いことだと一蹴することはできないが、 よいことなのかという問いがないのはまずいと思う。

結局、複数の異なる編集を行うマスメディアから 情報を取得することでしか、この問題は解決できない ように思われる。
できるとすれば、ひとつのマスメディアが複数の編集 方針を使い分けて報道することくらいだろうか。
そういうマスメディアは、これまでだと八方美人とか ご都合主義とか言われたのかもしれないが、 マスメディアが編集方針という正義をもつべきでない という時代になるのかもしれない。