築地と豊洲


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最終的には豊洲に落ち着くことになるらしいが、 築地にするか豊洲にするかよりも考えなければ いけないのは、今後の進め方をどうするかだ。

専門分化と効率化を進めた結果を掘り起こすと、 専門家が誠実であろうがなかろうが、検討や 調査をすべき事項は山のように増える。
その検討や調査を、既往の知見や専門家の判断に 基づいて省略することで効率化を達成しているの だから当然だ。
そこに時間とお金をかけることは、専門分化と 効率化の両方を同時に低減することになる。

専門分化とは責任の外部化であり、住環境、食品、 医療等を専門家に任せることと、その安全性に対する 責任を専門家に負わせることは表裏一体であった。
何もかもが専門分化した世界では、人間は個としては まったく不自由で、何かの専門家としてだけ自由を 手に入れることになってしまう。
それを理想とする考え方もあるだろうが、それは やはり個の意識を消す方向に行ってしまうように思う。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団

物理的身体によって規定された個人の代わりに、 専門分化を通して「この自動運転車に乗った人」 のようなかたちで再編された「個人」を単位に することによって、人類という集団全体の効率を 上げることが、近代の手法を突き詰めることで 得られる究極の形態なのかもしれない。

近代から抜け出すか、個の意識から抜け出すか。
押す方と引く方のどちらであれ、一方に振れるのは 寓話のような滑稽さを生み出すように思われる。
案外、現状のように、「安全だが安心でない」とか、 「税金の無駄遣い」とか言い合ったままでいるのが、 バランスが取れているのかもしれない。