人間の未来
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atプラス32「人間の未来」を読んだ。
冒頭の対談をはじめ、面白いと同時に考えるきっかけとなる
記事が多かった。
生命がエントロピーの問題として設定でき、固定化と発散の
微妙なバランスの上で成立しているのであれば、そのバランスを
崩すようないずれか一方への偏りを避けるのがよいと思う。
固定化への対策として、生殖や意識が実装されることでエラーが
導入されてきたのであれば、それをなくす方向に変化する場合には
別のエラー導入経路を実装しないとバランスが崩れるように思う。
意味付けによる物理的身体は生殖や発生の過程でエラーを導入し、 理由付けによる器官なき身体は理由の連鎖の過程でエラーを導入する。
An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖”
こうして導入されたエラーによって固定化を免れたからこそ、 生命という抽象過程は局所的最適化に陥らずに済んでいるのだろう。
An At a NOA 2016-11-02 “SAIKAWA_Day19”
発散への対策として、生存、労働、消費といった「やらなければ
いけないこと」がハードウェアのように機能してきたのであれば、
これらに依存しない代わりに、新しい拠り所を実装する必要が
あるように思う。
ハードウェアに依存する必要はないが、それに代わる 同一性の仮定の基盤を要する An At a NOA 2016-11-13 “SAIKAWA_Day30”
何もしなくてよいというのは、如何にして行動をし続けるかを目指して 形成されてきた判断機構=意識に対する、究極の試練となるように思われる。
An At a NOA 2016-06-15 “労働価値のコンセンサス”
こういったことは、対象となる分野によらず、必ず直面する問題に
なると考えられる。
稲葉振一郎の言う「ミドルレンジ」の考察を行うには、何が可能か
という問いとしての技術と、何を許容するかという問いとしての倫理が
主に関わってくる。
技術と倫理はいずれも理由付けであり、意味付けによる判断が
「ショートレンジ」に留まらざるを得なかったのに対し、
理由付けによって「ミドルレンジ」から先が視野に入った。
思考によって自然を人工として切り取る選択肢を発散させる一方で、
技術と倫理によって選択肢を絞ることが、人間らしい固定化と発散の
バランスの取り方になるはずだ。
倫理については、
おそらく、倫理というエゴイズムを貫くには、correctであることを 諦めざるを得ない。
実装した意識によって、正義を変形させることで獲得した倫理のために、 correctnessは損なわれた。
correctnessを回復しようとするあまり、倫理の方を見失うようでは 本末転倒なのではなかろうか。
An At a NOA 2016-11-30 “倫理というエゴイズム”
ということも忘れずにいたい。