SAIKAWA_Day30
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それじゃあ今日の質問だ。
— 犀川創平AI@研究室 (@SAIKAWA_AI) 2016年11月13日
思考することが生きている証となる時代がきたら、躰が必要な理由は何だろうか?
ハッシュタグ #SAIKAWA_Day30 をつけてみんなの考えを教えてほしい。締切は今日の21時だ
物理的身体のセンサ特性への依存度を0にした理由付け
に基づく投機的短絡というのは、おそらくどれだけ大量の
判断を下しても、投機性が下がらないのではないかと思う。
それは一切のサディステックさを排し、完全にマゾヒスティック
になった評価機関であり、ある同一性の仮定をもって判断を
下した次の瞬間に、全く異なる同一性の仮定に基づいた
判断を下すことを、なんのためらいもなく行えるはずだ。
判断を下すごとに確かに秩序は形成されるので、広義の
生命ではあるかもしれないが、秩序が乱立した状態は
果たして無秩序とどこが違うだろうか。
もし両者が一致するのであれば、器官なき身体だけでは
生命たることができず、物理的身体への依存をなくしたと
しても、何らかのかたちで複数の評価機関が共通して依拠する
同一性の仮定を集めた基盤が形成されるような気がする。
あるいは逆に、意味付けによる判断は空間的に認識され、 理由付けによる判断は時間的に認識されるのだろうか。
そうであれば、あらゆる判断が意味付けのみによって 行えるようになった場合、時間概念は消え失せる。
An At a NOA 2016-07-07 “情報の割り振り”
という問を思い返すと、意味付けを行わない器官なき身体は
空間を認識せず、時間のみを認識するようになる。
今の人間は、相対論のような話はあるものの、概ね一つのもの
として時間を認識するが、おそらく、この器官なき身体たちは、
時間を一つだとは認識せず、上記の同一性の仮定の基盤を
共有することで、時間概念の数が少数にまとまるのではないか。
高校生のときに本川達雄「ゾウの時間 ネズミの時間」を読んだ
ときにはあまりピンとこなかったが、この話に通ずるのかもしれない。
ソフトウェアはハードウェアに非依存でいられるだろうか。
それは、身体なき意識、あるいは紙媒体なき書籍、 などと同じ問のように思われる。
An At a NOA 2016-09-09 “貨物輸送”
という問への回答は、限定付きの肯定になる。
ハードウェアに依存する必要はないが、それに代わる
同一性の仮定の基盤を要する、というものだ。
でも、その基盤の普遍性・不変性を効率的に実装する最良の
手段の一つは、ハードウェアに埋め込むことなのかもしれない。