都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化
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「都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクト」の
最終成果報告会に行ってきた。
理学、工学、社会科学の三分野が連携ということだったが、
それぞれのプレゼンを聞いている限り、割と個々の問題に
取り組んでいる様子に感じられた。
- 理学は地震という入力情報のモデル化
- 工学はハードウェア応答のモデル化
- 社会科学はソフトウェア応答の整理
というところだ。
ハードウェアとソフトウェアの違いは、何で実装されるか
ではなく、どのように実装されるかであり、端的に言えば
抽象過程の固定度の差である。
自然科学が抽象過程を固定化したものと仮定できる対象を
主に扱うのに対し、社会科学は抽象過程の基準が変動する
対象、つまり人間の意識が関わるものを主に扱う。
そこに社会科学特有の問題があるように思われるのだが、
人間の意識が研究という理由付けを遂行するにあたって、
意識が理由付けすることそのものが難しさを生んでいる
というのは面白いと思う。
途中、E-ディフェンスは科学かという話も上がったが、
実験というエミュレーションを抽象することで、
解析というシミュレーションによってモデルを立ち上げ、
予測をするという意味では科学だと言えるだろう。
科学とは、真理の仮定に基づいて終わりなき理由の連鎖を
つむぐ行為である。
シンポジウムの後半ではビックデータや人工知能の話も
取り上げられたが、そういった技術によって判断機構を
作り上げるのもある程度必要なことだと思われる。
問題は、それが下した判断に果たして人間は従えるのか
というところだと思う。
理由なき判断機構は科学的ではなく、宗教や科学という
かたちで常に理由を必要としてきた人間にはマッチしない
ように思われる。
あるいは人間を従わせるためだけに、理由を付けるという
段階が挿入されるのかもしれない。
災害とは、社会現象化した自然現象である、という視点は、
伊藤毅「危機と都市」で指摘されたことにも通ずる。
そこに人の意識が介在することで、元々理屈を免れていた
自然現象は、理由を帯びた社会現象となる。
その社会現象から理由を漂白し、再び自然現象に戻すことで
災害が解消するというストーリィにもある種のSF的な面白さは
あるのだが、やはり人間としては科学という理由付けによって
克服する道を行きたいように思われる。
これもまた意識のエゴイズムだろうか。