未来のイヴ
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ヴィリエ・ド・リラダン「未来のイヴ」を読んだ。
ハダリーの物理的身体は個々の要素に解体された後、
理屈によって再構成されることで複製される。
「絞首台の黙示録」で描かれた、解体と再構成を経ない
物理的身体の複製との違いが、近代科学の象徴としての
エディソンの描写を強化しているように思う。
心理的身体が生じる過程についても、エディソンが
「神經流體」という理屈を付けようとするのに対し、
アリシヤとなったハダリーはただエワルドが見る幻だと
ということを、理屈抜きにやってみせた。
そういった自然と人工、本能と理性、現実と理想の対比に
ついて、思索としても描写としても優れた作品になっている。
あらゆる人間はそれと知らずにプロメテウスといふ名を 持ってゐるのです ヴィリエ・ド・リラダン「未来のイヴ」p.145
「動物」は間違ひを起しませんし、あれこれと模索も 致しませんな!ところが「人間」は、逆に、(そして これこそ、人間の神秘的な高貴さを形づくるものであり、 はたまた人間が神の選良たる所以なのですが)とかく 手を擴げたり誤謬を犯したりする傾きがあるのです。
同p.230
モデルと複寫とが全く區別できなくなってしまひます。
自然であってしかも自然以外の何物でもなくなるのですね。
同p.336
複製された物理的身体に心理的身体を吹き込む最後の段階が
それを見る側に委ねられているというのは、答えと応えの
違いと同じ問題である。
「BEATLESS」ではアナログハックと呼ばれていたが、意識や心
というのがそもそも見る側の存在によって完成するのだとすれば、
すべての人間は常にアナログハックをしているのである。
エワルドが述べた、
あらゆる戀愛行為に於て人はおのれの欲望に屬するもの だけを選びとるものではないといふことです。
(中略)つまり、人は全體と結婚するのです。
同p.368
という原則を、近代は超克した。
あるいは、超克したと思い込んだ。
人間が神の愛を拒否することで神は死に、科学が誕生した。
An At a NOA 2017-03-07 “her”
というのと同じように、ただ神のみが理由付けによって
解体されるのみならず、あらゆる愛が延期されることで、
ついには意識すら解体される。
それが「理解」である。
意識を「理解」し、人工知能に意識を実装することが
できたとき、意識も死ぬことになるだろう。
神が依然として存在しつつも死んでいるのと同じく、
意識はなくなるのではなくただ死ぬのである。
神は、草葉の陰でのたまっているのかもしれない。
次は意識、お前の番である、と。
「ハーモニー」において伊藤計劃は、意識がなくなることで
完全に合理的になった世界を描いた。
そこは時間が媒介変数となった、凍った世界である。
意識が死んだ世界というのはむしろ、合理性の点では現状と
大きくは変わらず、凍ったというよりは乾いたという表現が
似つかわしいような世界であるように思う。
理由を求めて自らに出会い意識を作り出した理由付け機関は、
その究極として自らを解体するところまで進まなければ
いけないのだろうか。
それを止める術があるとすれば、愛という名の充足理由律の
強制停止装置だけである。
エワルドは、ハダリーによる幻という説明を受け入れることで、
意識が理解可能になることを避けているようにも思える。
最後の最後でハダリーもエワルドも亡き者になってしまう
というあたりに、リラダンの思想が出ていると思うが、
アリシヤの振りをしたハダリーが、本当はアリシヤの振りをした
ハダリーの振りをしたアリシヤだったのかもしれないということを
示唆するような終わり方も、個人的には面白いと思う。
それは、科学によって物理的身体と心理的身体が分離されたとき、
何をもってアリシヤと呼べ、何をもってハダリーと呼べるのか
という問題であり、第六巻のホラー的展開に続くハダリーの
問いかけからも、なめらかにつながるような気がしている。
ねえ、おわかりになりませんの?わたくし、ハダリーでございます。
同p.395
いずれにせよ、物理的身体と心理的身体の分離性を扱った物語が、
視覚や聴覚、温熱感覚といった物理的身体への入力を否応なく
感じてしまう心理的身体の描写で終わっているのが、とてもよい
味を残してくれているように思う。
齋藤磯雄の訳はとても綺麗な文体で、読んでいるだけで心地よい。
その文体の綺麗さが、ハダリーという理想をさらに惹き立てている
ようで、本来フランス語で書かれたものが日本語としてここまで
昇華されていることに、ただただ感服するのみである。