読む・打つ・書く
[tag: book]
三中信宏「読む・打つ・書く」を読んだ。
このブログでも一時期よく打っていたが、社会人博士→研究員→教員と身分が変わる中で次第に打たなくなってしまっていた。しかし、こんな本を読んだからには、打たずばいられなかろうものだ。
第1楽章「読む」
元々あまり本を読まない方だったが、2015年に社会人博士になった頃から本に触れるペースがぐんと上がり、現在の蔵書は2000冊ちょっと。年間300冊くらい買って、半分は通読し、残り半分は目次などに目を通して「そこにある」状態にしておく。一冊の本を読むと、数冊の関連書籍がカートに入り、蔵書はねずみのように増殖する。
すべて紙の本で、PILOTの万年筆kakunoでマルジナリアを刻み付けながら、コーヒー片手に読み耽る。文字や図版を目で追い、ページをめくる音を聞き、紙を触り、古書やインクの匂いとコーヒーの味に浸りながら考えごとをする。傳田光洋「サバイバルする皮膚」に書かれていたように、皮膚がリアルタイムのデータを基に構築するモデルと、脳が履歴データを基に構築するモデルの相互フィードバックによって人間が成立していると考えれば、感覚器官を通して入出力される種々雑多なデータを存分に浴びて皮膚側のモデルが使えるデータを豊穣にしておくことが、脳側のモデルの更新にもよいのかもしれない。
探書のときも読書のときも、皮膚が察知した断片的な痕跡を、脳が「知識ネットワーク」として体系化する。本との付き合いは一種のフェティシズムでありたい。
第2楽章「打つ」
松岡正剛氏の千夜千冊に影響を受けたこともあり、書評というよりは、その本を読んで自分が考えたことを記録として打っておくという感じである。bookタグを付けた記事の大半が打った記録なので、250冊分くらいになるだろうか。
数々のマルジナリアを曲がりなりにも一つの文章にするのは、それなりに時間も手間もかかるものの、その時点の自分がどのように消化しようとしたのかがわかるのは面白い。
断片的な個々の読みを、一本の書評として体系化する。ここにも断片から体系へのプロセスが働いている。この過程は、限りなく「考える」に近いと思っている。
第3楽章「書く」
論文という断片を著書として体系化した経験はまだないが、学会での口頭発表のような速報的なものを査読付き論文にまとめる過程は、ささやかではあるが断片の体系化である。また、専門の建築構造分野では研究成果が設計に直結するケースもよくみられるので、論文→著書だけでなく、論文→設計というかたちでの断片の体系化もあるだろう。
建築の構造設計では、法律・指針・力学などの様々な体系に照らして安全であることを示すことが必要になる。すべてを既存の体系の枠組の中だけでやろうとすれば、当たり障りのない無難な設計に留まらざるを得ない一方で(壊死)、チャレンジングな設計をする際に既存の体系を全く無視していては、工学的・社会的・経済的などいろいろな理由で建たなくなる(瓦解)。読む・打つを通して積み重ねた既存の体系との断片的な差分によって体系を更新することが、つまりは書くことであり、壊死にも瓦解にも陥らない活動になるのだろう。
そして、個々の書くを一つの断片とみたとき、書くと書くの間にもまた、何かしらの体系が見出される。これは、読む・打つ・書くの様々な段階で展開される「断片の体系化」の物語ではなかろうか。「存在の大いなる連鎖」の文庫版解説に高山宏氏の曰く、
バラバラになっていく断片相、微分相の世界に、夢(フロイト、シュルレアリスム)、魔術(オカルト、マニエリスム)といった統一夢、融合夢が次々と生じた アーサー・O.ラヴジョイ「存在の大いなる連鎖」p.641
存在を繋ぐ魔術、存在を繋ぐエコロジー。
同p.642
断片の蒐集とその体系化による存在の連鎖の形成。それはとてもプライベートなプロセスで、フェティッシュなオカルティズムなのかもしれない。