クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime


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国立新美術館でクリスチャン・ボルタンスキー – Lifetimeを観てきた。

吐血しながら咳をする男と人形をなめる男が、えぐるほどの近距離から人間の身体性を刺激するところから始まる。
最初の部屋の展示からは、人生は如何にして痕跡として残し得るかというボルタンスキーの試みを感じる。人間の営みは、写真や衣服、創作物、生きた秒数などの文化的な化石へと圧縮される。
ボルタンスキーの心臓音を聞きながら、ボルタンスキーの顔のカーテンをくぐり抜けて左に曲がると、多くの顔が現れる。最初は少し不気味にも感じたが、モニュメントと題された作品が祭壇やステンドグラスとなって教会を構成しているのだと思って振り返ると、ふいにその前の空間が広場のように感じられ、整然と並んだ多くの顔は追悼碑のように見えてくる。ある特定の配置へと圧縮された教会や広場の表象は、文化的な記憶を共有することによって伸張され得る。
幽霊の廊下を抜けた先にはもはや顔は無く、うず高く積まれた古着と、その周囲に立つ声を発する古着が、着ることと話すこともまた人間らしさの一部であることを思い出させる。アニミタス(白)やミステリオスでは、人間の痕跡は風鈴やラッパにまで縮減されており、その痕跡すら、今はもうないのかもしれない。だんだんと儚くなっていく人間の痕跡を、人間が鑑賞しているという実感。

顔、古着、心臓音、声、映像。いつかどこかで存在(present)した何かが、時空間上の隔たった位置において、不完全な複製として再現(represent)される。熱力学第二法則に従って高まっていくその不完全性を埋めるのは、記憶であり、物語であり、神話である。アウラは、その埋めている感覚から生まれるのではないだろうか。
生というプロセスの渦巻く情報の海において、物理的な近さの有限性を知りつつも、離れたところにある生との距離を縮める別の方法を模索するところに、人間らしさがあるのかもしれない。