共にあることの哲学
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岩野卓司編「共にあることの哲学」を読んだ。
コミュニケーションが成立するためには、通信可能な
程度に共有するものがある必要があるように思う。
共有されるものとしては、宗教、慣習、貨幣、言語、
可視光線、可聴音など、様々なものが考えられる。
いわゆる「共同体」は、宗教や慣習のような、
固定化へと向かう一つの真なる理由を共有することで
成立する一真教的な集団であり、そういった共同体は
二十世紀に至って全体主義や共産主義へと帰結した。
その反省として、一つの真なる理由を避けた結果が、
物理的身体の共有の話に向かってしまうと、別の新たな
一つの真なるものを生み出すことになる。
一つの真なる何かへの収束を避けるために、判断基準を
共有していることではなく、判断基準を変化させながら
すり合わせる過程に着目しようとするのが、レヴィナスの
「対面」やデリダの「脱構築」だろうか。
フーコーによる「革命」と「蜂起」の区別もまた、変化に
よって生じる判断基準と判断基準の変化自体の区別に対応
しており、同じ方向を向いているように思う。
系譜学も、判断基準の変化を追うことで、可逆でない過程が
もつ経路依存性を示すものだと言える。
判断基準の変化は理由付けの投機性の現れであり、「にぎわう
孤独」の投機的短絡という創造性は、一つの真なる判断基準
への抵抗につながる。
判断基準の変化は粘性を有しており、その粘性によって
生まれる変化の緩やかな部分が集団の瓦解を防ぐ。
この緩やかな変化を実体化したものが、意識、言語、宗教、
貨幣、国家のようなものであるように思う。
それらを固定すれば、変化は次第に止まり、集団は壊死する。
それは、理由付けの投機性に目をつぶることであり、
考えることをやめ、分類に徹することである。
考えることは判断基準の変化をもたらし、分類は完遂 されないか、完遂された途端に別の分類が始まる。
An At a NOA 2017-12-28 “考える/分類する”
判断基準をすり合わせるには、ゆっくりと堅実的に変化する
部分も必要だが、それと同時に、投機的に変化する部分もある
ことによって、すり合わせの過程は止まらずにいられる。
通信可能性と応答可能性によって、その終わらない生き生き
とした過程を続けるのが、共にあることなのかもしれない。
通信可能性と応答可能性の両方を具えている ことが生きているということであり、 通信可能だが応答不可能な集団は壊死し、 応答可能だが通信不可能な集団は瓦解する。
An At a NOA 2017-11-17 “通信可能性と応答可能性”