幼年期の終り
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アーサー・C・クラーク「幼年期の終り」を読んだ。
文庫版で約400ページなのだが、3つも4つも小説を
読んだような感覚が残るくらい、ストーリィが
凝縮されている。
伊藤計劃「ハーモニー」とはまた別の仕方で、
人間が意識から解放される未来を描いているが、
むしろ興味深かったのは進化の袋小路に追い込まれた
存在として描かれたオーバーロードだ。
理由付けに拘泥することで人類よりも遥かに進んだ
科学を手に入れた一方で、〈全面突破〉の可能性を
失い、意識をなくしてオーバーマインドに吸収される
道が閉ざされたオーバーロードは、とても近代的な
存在である。
オーバーロードにとって、神は既に死んでいるかも
しれないが、それでも充足理由律に従って究極の理由を
追い求めた末に置かれたのがオーバーマインドであり、
それは神の代理とも言える。
オーバーロードや最後の地球人類ジャンだけでなく、
アーサー・C・クラークも読者も、充足理由律に囚われた
存在は皆、オーバーマインドというストーリィを必要とする。
オーバーマインドは理由の連鎖の果てにある不可視の大いなる
原因として、ただそこにあるだけだ。
理解しようとしてはいけない―ただあるがままを見守れば いいのだ。
理解はその後に訪れるか、もしくはまったく訪れないかだ。
アーサー・C・クラーク「幼年期の終り」p.362
ニーチェが神の死を宣言した後でも、充足理由律を棄却しない
限り、大いなる原因の座には科学における真理や道徳における
人間性のようなものが、常に鎮座し続ける。
棄却できなかったオーバーロードは、進化の袋小路にいることを
自認し、未だ幼年期にとどまっていた人類を棄却するほうへと
誘導したが、なぜ自我を確保するルートをハズレとみなしたのか。
それはもしかすると、
あらゆるユートピアの最大の敵―退屈― 同p.135
に侵されてしまい、
「われわれはこの先どこへ行くのだろうか?」
同p.203
を問うことに疲れてしまったからかもしれない。
人間もまたその状態に陥り、人工知能をつくる過程で意識を
実装することを回避するだろうか。
それとも、人工知能がオーバーロードとなり、人間を意識から
解放することになるだろうか。