芸術と技術2
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芸術と技術の違いとなる複製の完全性の差は、
複製過程がどれだけ理由付けられているかの
度合いを反映しているだろうか。
あらゆることに理由付けられることで複製は
完全になり、技術と呼ばれるようになる。
実際にそうではなくても、完全に理由付け
られたとみなされるだけでよい。
逆に、複製過程において理由がわからない
部分があると複製は不完全となり、芸術と
呼ばれるようになる。
物理的身体による意味付けを含む複製が
芸術的であることが多いのは、このことを
反映しているように思う。
理由抜きになされた複製は、それに対して
理由付けをする多くの余地を有することに
よって、新規性があるとみなされる。
情報の抽象過程の新規性に芸術の可能性は存する。
An At a NOA 2017-04-30 “芸術と技術”
複製過程が完全に理由付けられていること(A)と、
複製された抽象過程自体が完全に理由付けられて
いること(B)は、一見、「完全に理由付けて複製した
結果として得られる抽象過程は、完全に理由付け
られている(A⊂B)」という包含関係にありそうだが、
そうとも限らない。
むしろ、工学の多くはA∩Bの領域にあるだろう。
Aによって峻別されるのが、芸術と技術である、
というのが上述の話だった。
Bによって峻別されるのは、おそらく自然と人工
にあたるだろう。
だとすれば、ディープラーニングのような理由抜きの
抽象過程として成立する知能は、人工知能ではなく、
むしろ自然知能と呼ばれて然るべきである。
一方、人間が自らの知能を解明した末に得られるのは、
意識の人工知能化である。
そのような逆転が起きる可能性はあるだろうか。