オルダス・ハクスリーとドストエフスキー
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ドストエフスキーは読んだことがないのだが、
「ゲンロン0」第7章のドストエフスキー論が
明快で興味を惹かれた。
偽善的な社会主義者。
社会主義者に反発するマゾヒスティックな地下室人。
ニヒルなサディストになることを選んだ地下室人と
してのスタヴローギン。
カラマーゾフの兄弟たちは地下室人とスタヴローギンに
重なり、書かれなかった続編におけるアレクセイが
最後の主体となる、と東は考える。
ユートピアを語ったのは社会主義者だけではなく、
地下室人もスタヴローギンもアレクセイも、
何かへの反発としてではあるが、自分なりの
あるべき世界を目指したという意味では、
ユートピアを語っており、全体としてユートピア論、
ディストピア論となっている。
オルダス・ハクスリーもまたユートピア/ディストピアを
語っており、「すばらしい新世界」で言えば、
文明が社会主義者、不幸を要求したジョンが地下室人、
ヘルムホルツがスタヴローギンに当たるだろう。
ムスタファ・モンドは単なる社会主義者に分類できず、
強いて言うならスタヴローギン的なニヒルさを備えた
社会主義者だ。
バーナードは地下室人になってしまうだろうか。
それともアリョーシャになるだろうか。
残念ながら、ヘルムホルツと島に旅立ってしまうため、
そこは描かれない。
ドストエフスキーが描こうとした最後の主体にあたる
とすれば、おそらく「島」に出てくるパラの住人だろう。
「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「島」p.76
というセリフに代表される、シヴァ神が象徴する
パラドキシカルな世界が、ディストピアに陥らない
唯一のユートピアになり得ると思う。
それでも東が指摘するように、
世界がどれほどユートピアに近づいたとしても、 そしてそのユートピアがどれほど完全に近づいた としても、人間が人間であるかぎり、ユートピアが ユートピアであるかぎり、その全体を拒否する テロリストは必ず生みだされる。
東浩紀「ゲンロン0」p.275
ということになってしまうだろうか。
それは、「それひとつで良い答えなんてない」という答えを、
如何に提示できるかという部分にかかっている。
伊藤計劃はこの問いに対して、人間であることをやめれば
成立するという解を「ハーモニー」で提示した。
「親」としても生きることで、人間のままでありながらも
成立する解を提示することは、現実においても可能だろうか。