エレホン
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サミュエル・バトラ「エレホン」を読んだ。
ハクスリーが「すばらしい新世界」を書くにあたって
参考にしたらしい。
エレホンという架空の国もまた、あるユートピアや
ディストピア的なものとして描かれているのだが、
「すばらしい新世界」の文明とはまた違った世界だ。
どちらかと言えば、「島」のパラの方が近い。
エレホンにおける不合理さというのは、固定化に
陥らないために、複数の理由付けがあり得ることを
維持しているようにも見える。
不合理大学の章で、不合理を必要不可欠なものとして
捉えれるあたりはよいように思えるのだが、
結局は保守的な固定化した像として描かれているのが
少し残念である。
どうせなら、理由付けの多数性を重視し過ぎるあまり、
何を決定するにも常に矛盾や不合理を含まざるを得ない
ような社会として描くと、面白くなりそうなのにと思う。
アロウヘナの神に対する考え方や、「機械の書」、
あるいは植物の権利の話を読んでいると、
エレホンが出版されるわずか10年余り前に
初版が出たばかりの「種の起源」や、すっかり影響を
及ぼし尽くしたであろう産業革命の残滓に対して、
バトラ自身を含む当時の人々がどのように向き合おうと
していたのか、あるいはしなければならなかったのかが
現れていて興味深い。
生命の起源の考え方は現代では大方受け入れられたが、
機械と意識や生命の話なんかは80年後のウィーナーも
同じ話をしているし、何なら150年近く経った今でも
同じ話をしている。
エレホンにおいて、発明されて271年以上にならない機械が
打ち捨てられる結論に至った経緯が、人間の祖先に関する
進化論的見方への拒絶と同じ気分を、自らの子孫に対して
表明した結果として描かれているのがとても印象的だった。
私は、如何なる古い時代にあっても、私の祖先は人間以外の 者であったと信ずることを、戦慄をもって拒否するのだが、 それと同じ戦慄をもって、人類が押し除けられ、打ち克たれる ことがあり得ると信ずることを拒否する。
サミュエル・バトラ「エレホン」p.249
進化論を受け入れられた人間は、いつか機械が自らの制御の外に
発展することも受け入れられるようになるだろうか。
機械の話の他にも、動物を食べなくなる過程等、理性の民として
描かれたエレホン人だが、それが結局は固定化してしまう
のであれば、理由というよりは理屈に拘泥しているだけである。
本能によって修正されない理性は、理性によって修正されない 本能と同様に宜しくない。
同p.274
本能によって修正されない理性というのは、理性というよりは
別の種類の本能と呼ぶべきものである。
p.s.
19世紀後半〜20世紀前半という時代は、1859年に初版が出た
「種の起源」にいかに向き合ったかという複雑な心境が
現れていてとても面白い。
誰がいつ何に触れることができ、何を考えたかを押さえるのも、
こうした視点に役に立つ。
ということで、個人的に興味がある人物の年表を作った。
En attendant Itoh - History of Abstraction
(イトーを待ちながら―抽象の歴史)