いま集合的無意識を、
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amazonのページを開くと、2012-03-16に購入とある。
買った当時、表題の「いま集合的無意識を、」だけは
読んだはずで、読み返してもところどころは覚えているが、
今回やっと、神林長平がどんなことを言いたいのかが
おぼろげながらわかったような気がした。
今回もまた、表題作しか読んでいないのだが。
なぜなら、概念などというのは人間が考える〈フィクション〉 にすぎないからだ。〈リアルな世界〉をどう解釈するかという 〈物語〉だ。それを生んでいるのが、まさしくぼくの考える 〈意識〉だ 神林長平「いま集合的無意識を、」p.212
それは、〈わたし〉を生じさせている肉体の、ある一瞬の〈状態〉 のことであって、固定化された〈主体〉がどこかにあるわけではない、 と考えるのが妥当だとぼくは感じる。
(中略)それは、われわれの認識感覚を越えて広がっている、 いまわれわれが存在しているところの〈リアルな世界〉そのものの、 ある一瞬の〈状態〉でもあるだろう。
同p.213
情報、それを受け取るセンサとしての身体、意味付け、理由付け、
というものと、同じ捉え方をしているように思う。
神林長平は、ハーモニーにおいて伊藤計劃が〈知能〉と〈意識〉を
切り分けたと指摘しているが、それは意味付けと理由付けの違いであり、
無意識と意識の違いに相当すると思う。
意味付けが大量のデータに基づく特徴抽出であり、
理由付けが少量のデータに基づく投機的短絡である、
という点で、一見両者は異なるが、データ量が十分であるかどうかという
閾値は程度問題であるから、全く異種のものではないと考えられる。
無意識と意識もまた、そのような関係にあるはずだが、
これらが独立に存在できるということには賛成である。
だからこそ、人工知能は無意識にはなれると思うし、意識を実装できるか、
あるいはするべきかという問題はこれとは別問題だと考えている。
最後に、ウェブを体外に出た〈意識野〉として捉える話が出てくるが、
この意識=フィクションの暴走を統合失調状態になぞらえるセンスには
共感できる。
神林長平が思い描いていたような統合失調状態、あるいはその先にある
人格機序の崩壊に、既に差し掛かっているのかもしれない。
一つの人体の中でのコンセンサスがとれなくなる状態を 統合失調症と呼ぶのであれば、社会としてコンセンサスが 取りづらくなっている現代は、統合失調症的な状況に あるのかもしれない。
An At a NOA 2016-06-06 “統合”